2009年7月 6日 (月)

東京都民の皆様、オリンピックはやめにしましょう

東京都議選が行われています。

オリンピック招致も争点の一つです。

この選挙で反対する議員が多数となり、10月の開催地決定の前に辞退するようになることを願っています。

今、オリンピックは必要或いは優先すべきことなのでしょうか。

石原都知事は、二言目には、昭和の東京五輪の成功と感動を言います。

しかし、昭和39年の東京五輪だってよいことばかりではなかったはずです。

悲劇もありました。

円谷幸吉をご存知でしょうか。

男子マラソンの銅メダリストでした。

自衛隊体育学校に所属しており、彗星のごとく現れ、メダルを獲得しました。

円谷は、自衛隊のイメージアップの期待を掛けられ、次のメキシコ大会での活躍を期待されました。

もちろん国民も期待します。

マラソンの邪魔になるからと婚約者と別れさせられ、馴染んでいたコーチとも離されました。

そんなことをする自衛隊体育学校の校長が悪いのですが、校長とて五輪を機に、自衛隊の地位を向上させようとの一心でやったこと。

結局、円谷はもう疲れて走れませんという遺書を残して自殺しました。

もちろん円谷の悲劇は五輪が直接の原因ではありません。

でも五輪によって追詰められていた事は確かです。

何が悪かったのか十分検証されているとは言えないと思います。

昭和の五輪はまだ総括されていないのです。

それをせずに一部の人の思い込みによって、また五輪を招致するなどあってはいけないことです。

円谷は今生きていたら、69歳(昭和15年生まれ)、まだ老け込む年ではありません。

過去の人として忘れてはならないと思います。

他にも、東京五輪に反対する様々な意見が出されています。

五輪はギリシアに始まりました。

戦争中でも一時休戦して開かれたことから平和の祭典と呼ばれています。

これからは、世界の紛争地域や紛争の種の地域で開催し、平和をもたらしてもらうのがよいでしょう。

ダルフール、イスラエル、イラン、北朝鮮、チベット(標高が高すぎて難しいでしょが)、候補となる国や地域はいくらでもあります。

どうしても日本で開催したいというのなら、ロシアとの懸案事項となっている北方領土で開催するのがよいのではないでしょうか。

政府も北方領土は日本固有の領土であるという立場ですから、開催は可能でしょう。

ロシアとの間にも十分な対話がもたれ、平和解決への道が見えてくるのではないでしょうか。

開催地は、本土に近くて大きい国後島がよいでしょう。

2016年東京五輪はやめて、2020年国後五輪を、高橋はるみ北海道知事を先頭に招致するとよいでしょう。

東京都民の皆様、12日にはぜひ投票に行って、賢明な選択をしてください。

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2009年6月29日 (月)

土佐人の物語37(昭和篇2)

今回は、総理大臣浜口雄幸(1870-1931)を取り上げます。

官僚の後、政治家。

大正13年、加藤内閣で大蔵大臣、緊縮財政に取り組みます。

前年に関東大震災が起こっていましたから、当然の政策ですが、頑固で強い責任感のたまものでもあります。

浜口は空理空論を排し、責任ある政見の表明を心がけていました。

土佐人の具体性志向がうかがえます。

大正14年、城東中学校での講演で、「日本人には、国体より生ずる忠君愛国の立派な思想がある」と述べています。

土佐南学の流れも感じられます。

昭和2年の金融恐慌の混乱の中、そして世界恐慌の発生した昭和4年、立憲民政党総裁として、内閣総理大臣に就任します。

天皇大権を認め、君主統治の下で、普通選挙を実現します。

女性の参政権はなく、25才以上の男子に限られていましたが、ある意味、一君万民思想の実現と言えるかもしれません。

金解禁政策が有名です。

この当時、日本は金の輸出を停止していました。

世界は、金本位制をとっており、金の輸出を停止しているということは、日本の通貨に金の裏打ちを与えていない、世界から信用されない状況だったのです。

金解禁とは、日本通貨に裏打ちを与え、世界標準に戻すことでした。

経済の発展には必要な政策です。

しかし、世界恐慌の真っ只中、時期が少し悪かった。

「明日伸びんがため、今日縮む」と説得しましたが、通用したかどうか。

国会は乗り切ったとしても、国民には不満があったようです。

これには、内に厳しく外に合わせる思想、世界全体を公と捉え重視する思想が潜んでいたのですが、わかりにくかったかもしれません。

ロンドン軍縮条約締結も有名です。

第1次世界大戦以後は平和が到来し、協調外交の一環として行われたのですが、大国意識を持ち始めた国民にとっては納得いかないことだったようです。

東京駅で狙撃され、「男子の本懐である」との名ゼリフを残しました。

少し前、民主党の小沢さんも使ってましたから、寿命の長いセリフです。

男子たるもの一度は使ってみたいのかもしれません。

浜口は、土佐人らしさがうまく出て成功した実例です。

しかし、最後を全うできませんでした。

土佐人には悲劇がつきものなのでしょうか。

土佐の暮らしは日々喜劇に満ちているというのに。

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2009年6月22日 (月)

2011年NHK大河ドラマ「江」について

高知では、2010年の「龍馬伝」で盛り上がっていますが、早くも2011年の大河が、発表されました。

お市の方の三姉妹、お茶々、お初、お江(ごう)の末娘お江だということです。

これには、驚きました。

お江には大河の主人公になるような存在感はありません。

お江を描いた永井路子氏の「乱紋」という名作がありますが、永井氏でも苦労していることが、うかがえます。

お江が果たした役割を描けば、凄いドラマになるかもしれません。

それは歴史の深層に深く分け入ることになります。

果たして描ききれるでしょうか。

お市の方と柴田勝家が自害した後、三姉妹は秀吉に引き取られ、安土城に住みます。

お江は秀吉の駒として使われます。

秀吉と家康が、小牧・長久手で戦い、和議をした後、家康からは結城秀康が差し出されました。

秀吉は、お江を差し出そうとしたのですが、その頃まだ力を持っていた織田信雄が反対し、信雄の家臣ともいうべき佐治一成に嫁ぎます。

佐治一成は尾張大野(現常滑市)5万石の大名でしたが、水軍を持っていたので、石高以上の価値がありました。

秀吉がこの婚姻に賛成したのは佐治をやがては自分の味方に取り込めると思ったからでした。

何故なら、秀吉はその頃既に、お茶々を側室にしようと決めていましたから。

やがて織田信雄は没落します。

佐治一成は、秀吉の家臣になることを嫌い、お江を帰します。

秀吉はお江を自分の側室にしようと色気を出しますが、お茶々が反対し、秀吉の甥で養子である羽柴秀勝に嫁ぎます。

羽柴秀勝は関白となった秀次の弟です。

秀次が関白になった背景にもお江の存在があります。

お茶々がお江の夫を関白にしたくなかったからということが考えられるのです。

羽柴秀勝は、朝鮮侵略の文永の役で没します。

秀吉はもう一度お江を側室にしようと画策しますが、うまくいきませんでした。

そしてお江を2代将軍となる秀忠に嫁がせたのです。

これは家康の正室として送り込んだ妹朝日姫が死去したので、その代わりに人質として、行かせたという意味があります。

家康の側室にしなかったのは、秀吉の嫉妬心からだろうと思われます。

この婚姻によって、家康は、お江のすぐ上の姉お初とその夫京極高次を味方に引き入れるきっかけを得ます。

関が原での勝機、大阪冬の陣・夏の陣でのお初の活躍(それは家康側に有利に運ぶ事でした)を手に入れました。

お初は、お江の娘をもらい、将軍家と縁続きになることを何より喜んでいました。

このようにお江自身は運命に流され、利用されながら、回りではとてつもないドラマが展開していくのです。

お江を描くことは、三姉妹の愛憎を描くことです。

単に仲のよい三姉妹にしたのではぶち壊しです。

さらに、織田家と豊臣家、豊臣家と徳川家の関係を深く描くことになります。

それができれば50作目に相応しい大河となるでしょう。

さらにお江の娘達の役割も見逃せません。

豊臣との関係維持のため、秀頼と婚姻させられた千姫、加賀前田家を徳川方につなぎとめるために送り込まれたお珠、朝廷との関係維持のため後水尾天皇の中宮となった和子、ドラマにあふれています。

さらに大奥の支配権をめぐる春日局との対立、3代将軍をめぐる争いなど、お江の回りはドラマであふれています。

よくぞ主人公に選んでくれたとNHKには敬意を表します。

歴史の暗部をや人間の真実を描く、深くて見ごたえのあるドラマになることを期待しています。

織田・豊臣・徳川の家中に嫁入りして、段々出世していったのは、お江しかいません。

それぞれの家臣となり、出世した名のある武将(大した名ではありませんが)は、山内一豊しかいないでしょう。

お江は、極めて稀な奇跡のような人生を生きています。

しかも自身で運命を切り開いたのではなく運命を受け入れ、ある意味平凡に生きたのです。

今から楽しみです。

勿論最も楽しみなのは、長宗我部元親が大河になることですが。

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2009年6月17日 (水)

土佐人の物語36(昭和篇)

今回は、実業家にして政治家の片岡直温(なおはる、1859-1934)を取り上げます。

葉山村(現津野町)生まれ。

吉田東洋の設置した致道館に学び、明治14年上京。

内務省御用係を勤め、翌年立憲帝政党設立に参加。

明治22年からは、日本生命創立に関与して、副社長。

明治36年から大正8年まで、日本生命社長。

その後政界に入り、大正15年の第1次若槻内閣で大蔵大臣に就任。

昭和2年、議会答弁の時でした。

その頃は、大正12年の関東大震災による景気悪化が深刻になり、小規模な金融機関は行き詰まっていました。

景気について質問された片岡は、その深刻さを強調しようとするあまり、「今日、正午頃、渡辺銀行がとうとう破綻しました」と答弁してしまったのです。

正確には、その時はまだ破綻してはいませんでした。

しかし、取り付け騒ぎが起こり、渡辺銀行は破綻しました。

他の小さな銀行にも波及し、連鎖的に破綻していきました。

昭和の金融恐慌となりました。

鈴木商店なども破産しました。

世界恐慌(1929年)の2年前の出来事でした。

昭和金融恐慌は土佐人が引き起こしたことだったのです。

これらの責任を取って、若槻内閣は総辞職をしました。

片岡の答弁はお粗末すぎます。

大蔵大臣ともあろう者が、未確認情報を基に答弁をしてはいけないことは明らかです。

自分の立場・その影響も考えられていません。

しかし、土佐人にはよくあることです。

言語センス・能力はあるのですが、TPOや影響を読む力がないのです。

土佐人は考えなしに発言することが多いですが、それなりの立場の人間は注意すべきでしょう。

言葉は大事にしたいものです。

「口は災いのもと」とならないようにしなければなりません。

発言の前に、その影響を考えることが必要です。

昭和金融恐慌と世界恐慌の影響を受けた日本社会は、不況のどん底となり、未来への希望を無くし、軍部の増長を招きます。

太平洋戦争の出発点は、片岡の答弁にあったのかもしれません。

土佐人が戦争の原因を作った、勿論それほど直接つながってはいませんが、そう言うこともできます。

現代は、総理はじめ大臣の失言には皆なれっこになっていますが、もう一度一言の重みに想いをはせてみる事も大切でしょう。

さて、片岡直温という人物、日本生命の社長を長期間勤め、大蔵大臣にまでなったのですから、成功した人生と言えるでしょう。

しかし今、どれだけの人が片岡の名を覚えているでしょうか。

そしてその人生を知った時、どれだけの人が片岡を賞賛したり郷土の誇りにできるでしょうか。

一言の失言で人生が決定づけられる場合もあります。

いやはや言葉とは大変なものですね。

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2009年6月11日 (木)

えん罪とどう向き合えばよいのでしょうか

足利事件によって、冤罪のことを考えさせられました。

冤罪は他人事ではありません。

映画「それでもボクはやってない」に描かれていたように、誰にでも起こりえます。

そして、裁判で真実が明らかになるとも限りません。

人間は、完全ではないので、間違うことは避けられません。

どのようにしても冤罪の可能性は消えないでしょう。

だから多方面から色んな角度で検討してみる必要があります。

公判前整理手続きによって、論点が絞られるそうですが、誰かが見落としたものの中に大事な真実が隠されているかもしれません。

「12人の怒れる男」という陪審員の協議を描いた映画がありました。

最初、殆どの人は有罪としていました。

中には、「早く片付けようじゃないか。今からなら野球の試合に間に合う」と言った人もいました。

しかしある人が「一人の人の命がかかっている」と発言したことで、白熱した議論が展開されることになります。

正に命がかかっているのです。

あまり短時間で判決を出すことがよいとはどうしても思えません。

冤罪は極力減らすように、そのためにどこで判断を間違ったのかを検討しなくてはならないでしょう。

冤罪の被害者には、どう向き合うべきなのでしょうか。

報道によると免田さんには、「悪魔」と書いた紙が届いたり、富山の冤罪被害の男性には、「本当はやったんじゃないのか」と言いにきた人もいたとか。

冤罪によって苦しんだ人を何故さらに苦しめなくてはならないのでしょうか。

江戸時代、晒し者になった罪人には石を投げてもいいという意識がまだ残っているのでしょうか。

例え本当に犯罪を犯した人にも、個人的な制裁は許されないことです。

犯罪者は守られていても、犯罪被害者は守られていないということで、全国的に犯罪被害者支援の動きが高まっています。

冤罪被害者も犯罪被害者です。

救済の活動に取り組むべきでしょう。

誰でも罪を犯す可能性があります。

犯した人にも更生の道を確保しなくてはなりません。

刑務官の暴行が問題になりましたが、犯罪者は勝手に制裁してよいという意識の表れだと考えられます。

こういう意識を改めていかねばなりません。

罪を償ったら許し、受け入れるべきでしょう。

冤罪被害者に対しては、社会が償うべきです。

そして、周りに犯罪者や冤罪被害者がいなくても心がけることはあります。

それは、安易に人を裁いたり、責めたりせず、相手をよく理解しようと努めることです。

土佐人は、これをすぐやるのでよく自戒しなくてはなりません。

多方面から考え、真実に近づくことこそ大切です。

そのためには十分に考える時間を持つことや、人生をシンプルにしていくことが必要です。

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2009年6月 1日 (月)

土佐人の物語35(大正篇2)

今回は、鈴木商店の大番頭金子直吉(1866-1944)を取り上げます。

名野川村(旧吾川村・現仁淀川町)生まれ。

高知城下で質屋に丁稚奉公しているとき、質物の「孫子」を読んで、商略を得ました。

二十歳のころ、神戸の鈴木商店の手代となり、鈴木商店を拡大させることに手腕をふるいます。

土佐人の攻めの強さを体現し、することなすこと面白いようにあたり、一時は日本一の売り上げを出すほどになります。

一地方の中小商店に過ぎなかったのに、三井・三菱との天下三分を計画するまでになります。(住友の立場はどうなるのでしょう)

天下を望む土佐人らしさがよく出ています。

土佐を愛し、息子たちは土佐で教育を受けさせ、土佐から人を呼び、一癖も二癖もある土佐人を使いこなしました。

「初夢や 太閤秀吉 奈翁(ナポレオン)」

金子が正月に作った俳句です。壮大さが伝わってきます。

「会計士などくそくらえ。まっしぐらに前進じゃ」

事業計画とか財務管理など二の次、とにかく攻めるのです。

しかし、不況の中鈴木商店だけ儲け太っていることに対し、不正の噂が立ち、大阪朝日などの新聞が標的にした記事を載せるようになります。

「鈴木は悪いことなぞしていない。いつかきっとわかるんじゃ」

金子は社員に言いましたが、噂は膨れ上がります。

自分が疚しくなければ理解されるという素朴な信念は、土佐人らしいですが、世間に対するアプローチ、自分をどうプロデュースするかという視点が欠けています。

鈴木商店は終に焼き討ちに遭います。

金子はその後も事業建て直しに奔走しますが、あまりうまくいったとはいえません。

攻めるに強く守るに弱い、これも土佐人の特質です。

よく土佐人はセールス力が弱いと言われますが、攻める力、売り込む力はあるのです。

足りないのは、守る力、耐える力、世間を掴む力(大衆心理を読む力)です。

金子は天下国家のための事業を鈴木でやろうとしていました。

しかし、世間には理解されていなかったようです。

むしろ、独り勝ちが、羨望と嫉妬を招いていました。

そういう状況を緩めようと西川支配人が、各所への寄付を計画しますが、そんな偽善は出来ないと金子は拒否します。

金子が大衆心理にもう少し通じていて、寄付をしていれば、焼き討ちはなかったことでしょう。

攻撃される理由が全くなくても攻められることはあります。

それをどう防ぐか、「孫子」には載ってなかったのでしょうか。

金子は劇的な人生を遂げましたが、商人として本当に成功したか評価は難しいです。

金子の墓は、高知市を見下ろす筆山の頂上にあります。

彼が、土佐を愛し、根っからの土佐人であったことは、間違いありません。

彼の次男武蔵は、哲学者で東大名誉教授でした。

ヘーゲルの「精神現象学」を翻訳・解説したことなどで知られています。

私のように少しでも哲学をかじった人間には忘れられない人物です。

西田幾太郎の娘と結婚しています。

土佐人に哲学は向かないということへの大きな反証となる人物です。

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2009年5月26日 (火)

長宗我部最高委員会一領具足強化合宿

ネット上で、長宗我部氏について語り合う「長宗我部最高委員会」というのがあります。

その世話役の人が、元親初陣祭に合わせて、ツアーを企画して、高知にやってきてくれました。

5月23日、24日のツアー名が「一領具足強化合宿」でした。

23日は、国分寺と岡豊城に行きました。

長宗我部氏に関わることへの熱狂ぶりには驚かされ通しでした。

参加者には、それぞれの元親像があると思います。

ただ表面的に捉えないで、元親の全体像を知って、応援してあげてほしいと願っています。

そのことは、岡豊城本丸跡でも講談を通じて語らせてもらいました。

元親は、本来武将には不向きであったかもしれません。

英雄的な所もあまりないように思います。

家督相続では、吉良親実を切腹させ、「七人みさき」を起こしたように、間違いも多々犯しています。

しかし、阿波中富川合戦の前には、一領具足たちを集めて軍議を開いています。

一兵士たちと軍議を開いた戦国武将はいなかったのではないかと思います。

まさに「アニキ」と呼ばれるに相応しい存在です。

元親は、大変興味深い人物です。

それを土佐人にももっと知ってほしいと願っています。

機会を見つけて、語っていくことにします。

土佐人が元親を再評価できるようにしたいものです。

そうすれば、長宗我部最高委員会のツアーを歓迎する人の輪ももっと広がっていくことでしょう。

24日には、ツアーの一行は、朝倉城跡見学の後、若宮八幡宮で元親初陣祭に参加しました。

元親初陣祭では、講談をする時間がとれませんでしたが、多くのよい出会い・再会がありました。

初陣祭に出た地元の者は、ツアーメンバーの熱い想いを知って、改めて元親をはじめとする長宗我部氏の価値に気づいたのではないかと思います。

元親は知れば知るほど面白い。

土佐人にとっての誇りになります。

それをこれからも大事に語り伝えていきたいものです。

長宗我部最高委員会が企画するツアーはこれからも春と秋に高知に来てくれるそうです。

語り合う機会はこれからもあるでしょう。

楽しみなことです。

お世話役の方々、今回はどうもお疲れ様でした。今後ともよろしくお願いします。

春の初陣祭、秋の慰霊祭はこれからどんどん盛り上がっていくことでしょう。

土佐の宝がまた一つ見えてくることでしょう。

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2009年5月18日 (月)

土佐人の物語34(大正篇)

今回は、寺田寅彦(1878-1935)について考えます。

寺田は、ユニークな地球物理学者にして、文筆家です。

枠にはまらない土佐人らしい学者です。

日常身辺の諸現象をあくまで具体的に分析し、法則性を見つけていくところに独自性があります。

「藤の実の瞬間的はじけの機巧について」(英文)では藤の実のはじけ方を研究していますし、ガラス板の割れ方の研究などもしています。

夏目漱石「吾輩は猫である」にその辺をおもしろく描かれています。

日常から離れ、高度に抽象化していくのは、土佐人の苦手とするところです。

日常に即した視点から、展開する方法論は、日常から遊離した物理学などの自然科学、いや経済学などの社会科学にも、重要な示唆を与えることでしょう。

日常性をおろそかにしてはいけないのです。

日常から遊離したマネーゲームが経済を破綻させたのですから、日常を大切にして、再構築する必要があるように思います。

もちろん寺田は、日常性だけの学者ではありません。

ウェゲナーの大陸移動説に賛同し、日本に最初に紹介しました。

世界規模の大きい話が好きなのも土佐人的です。

「天災は忘れた頃にやってくる」という名言も残しています。

言語感覚が鋭く、名言を多く残すのも土佐人の特徴です。

寺田の名前が忘れられたとしても、この言葉は何かの災害が起こるたびに繰り返し語られるでしょう。

自分の言葉がずっと残っていくことは、思想家としては、最高に理想的なことです。

5・7・5と俳句形式になっているのも覚えやすくていいですよね。

寺田寅彦を大切にしていきたいものです。

土佐人に親しめる学問の世界を展開してくれていますので。

そういえば、牧野富太郎も極めて具体的な植物の世界を対象にしました。

日常性と具体性は土佐人に欠かせないポイントのようですね。

PS 5月23日、東京からくる長宗我部最高委員会のツアーの方々の前で講談をします。

岡豊城、歴史民俗資料館玄関前に午後1時集合になっています。

24日は、長浜の若宮八幡宮での元親初陣祭(11時より)でも講談をさせてもらいます。

どちらも内容は元親です。そのときの状況で変わりますので、詳しい時間は未定です。

興味がおありの方は、24日の方はご自由に、23日はご一報ください。

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2009年5月11日 (月)

よしなしごと

今回のタイトルは、「徒然草」からとっています。決して仕事なんかやめておけと言っているわけではありません。

5月の連休中風邪をひいてしまい、5、6日とはりまや橋商店街には行けませんでした。

ひょっとして会いに来て下さった方がいたなら、平にご容赦ください。

不調のときは、健康のありがたみと人の情けを感じます。

8日、以前も来てくれたY氏がまた来てくれ、「ごまめのはぎしり」で講談も聞いていってくれました。

彼は、これから農業に打ち込もうとしています。

これもご縁なので、イベントで販売する時などあれば、少しでも手伝いたいと思っています。

「ごまめのはぎしり」では、邪馬台国四国山上説で盛り上がりました。

そのうち賛同する人が集まって語り合う場が持てるとよいと思っています。

それまで、お互いが調査をし、考察して、情報交換していきたいものです。

邪馬台国四国山上説検証プロジェクトをそろそろ始めてもよいころかもしれません。

2016年東京五輪について、ある女性タレントが「みんな好きなものは分かれているので、一つにまとまることはないのでは」と発言していました。

正にその通りなのです。

1964年時には、日本は高度経済成長の入り口にあり、首都高速と新幹線が完成して、国民も一つになって、未来を信じ、盛り上がることができました。

今は全く状況が違う。

石原都知事は、時代の変化を知るべきです。

あの時の感動を味あわせてやりたいとよく言いますが、感動は起こるのでしょうか。

マスコミなどによる作られた感動は願い下げです。

状況や心情がわからず自分の気持ちだけで突っ走ってしまう政治家は退場すべきです。

民主党の小沢氏はよくぞ代表を辞任しました。

政権交代を期待します。

トヨタや東芝などの大企業が巨額の赤字を出しているのに、株価は上がっています。

日本の失業率も上がっていますが、アメリカでは、8.9%になっています。

それでも、ニューヨークの株価は上がっています。

株価が上がっていれば、安心でしょうか。

マネーの暴走を止められない限り、経済は崩壊し、人類に未来はありません。

経済活動には、何より道徳や倫理感からくる節度やマナーが必要です。

「マネーにもマナーを」、マネーを扱う人間にこそマナーがなくてはなりません。

世界は、道徳資本主義、倫理資本主義でやっていかなくてはならないのです。

5月16日に予定されていた講談は中止になりました。

お世話くださった方はご苦労様でした。

またの機会を楽しみにしております。

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2009年4月27日 (月)

土佐人の物語33(未来への希望)

前回、未来への希望の大切さを述べました。

今回は、土佐人にとっての未来への希望はどこにあるかを考えます。

原始的で、生命力に溢れ、猛々しくさえあることは、この混迷の時代を生き抜いていく力になるでしょう。

さらに人を受け入れもてなす、お接待の文化、おきゃくの文化があります。

これを基本にしていくといいのではないでしょうか。

資本主義においては、本当は何を基本・元手にしていくかが大事です。

マネー資本主義は崩壊しました。

土佐人は、おきゃく資本主義でいけばよいと思います。

中平さんは、以前よさこい資本主義と言っていました。

おきゃく資本主義も同じようなものです。

おきゃくを大いにやればいいのです。

誰もが単なる「お客さん」ではなく、飲んで、食べて、歌って、語り合って、芸を披露して、誰もが自分を表現できて楽しい場であることが大切です。

おきゃくは、土佐人にとって祭りなのです。

祭りとは、人が神に近づくことにより、生命力を取り戻す場なのです。

神の力を宿した供物を頂くことで、ケガレを払い生命力を回復させる場なのです。

おきゃくによって常に生命力を取り戻している土佐人には希望があります。

太古の祭りにつながるおきゃくをしている限り、土佐人は不滅です。

おきゃくは単なる飲食の場ではないのです。

また、これからは、単に憂さを晴らす場だけにしてはいけないでしょう。

大いに語り合う中から、よりよく生きていける道を見つけることが必要でしょう。

例えば、特産品の開発やそれを販売するルートの開拓などを一緒に考えたらよいでしょう。

もちろん特産品を楽しむ場であることは言うまでもありません。

色んなものをおきゃくから生み出していくことが土佐人の性に合ってます。

土佐くらい自然が豊かで様々な食材が豊富なところはありません。

それを全世界に分けてあげるといいでしょう。

食糧問題は、土佐に任せろというくらいの気持ちがあってもよいではないですか。

勿論、生垣まで食べれるようにする山形県民の知恵も大事ですが。

さらに森林資源をエネルギーに変えていけるなら、エネルギー問題も解決します。

世界が直面している食糧問題とエネルギー問題を土佐から解決していけるかもしれません。

こういう太い話が好きで、大いにできるところも、土佐人の良さであり、未来への希望なのです。

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