2012年1月28日 (土)

長宗我部紀行26

(タイトル)東の広井 西の吉田
南国市廿枝 西島園芸団地
ここには広井土居城があった
長宗我部六代目満幸の次男俊幸が
南北朝時代に城を築き広井氏となった
その後ずっと長宗我部に仕えた
戸次川で死んだ者もいる
北東の祠は城八幡なのだろう
南国市岡豊町吉田
ここには吉田土居城があった
吉田氏は以前からこの江村郷吉田に住んでいたが
吉田周孝が長宗我部国親の縁者となることで
一族は重用され
数多くの功績を残した
この地は高い土塁に囲まれている
土塁は高さ約3m幅約5m
土塁の上は畑や墓地になっているが
比較的よく残っており
戦国の息吹を感じさせる
一角に石碑と祠がある
何やらゆかしい
広井氏と吉田氏は
「東の広井 西の吉田」と並び称され
岡豊城の東部の守りを担当した
長宗我部になくてはならない一族だった

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2012年1月 8日 (日)

長宗我部紀行25

(タイトル)安芸方が善戦した姫倉城
香南市香我美町岸本
月見山への道の手前に
姫倉古戦場跡の石碑
吉良親貞・香宗我部親泰が
姫倉豊前守・右京親子と戦った
姫倉勢は善戦し
岡豊勢を大いに悩ましたが
多勢に無勢で敗れた
姫倉豊前守は安芸へ逃げる途中で
長宗我部に降伏し
八流合戦では先陣を務め
中富川合戦でも活躍した
子の右京は和食城を預かった
月見山に上る道の途中に
姫倉城の案内標示があり
丸太を敷いた道がある
姫倉城址は公園になっていて
ブランコやシーソーがあり
周りには土塁が残っている
海がよく見える
東に二の段がある
この地は熊野新宮の領地であった
古代からの神秘とロマンが漂っている

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2011年12月27日 (火)

2011 年末回顧

今年は、震災や原発事故により、日本人や人類に試練が与えられた年であったと言えます。

我々は、他との関わりなしに生きていくことはできない。

絆・つながりが再認識されました。

反格差デモで、資本主義・市場主義への疑問が提出されました。

しかし、まだ我々は、目覚めていないようです。

来年どういう方向が出てくるのか注目されます。

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2011年12月14日 (水)

長宗我部紀行24

(タイトル)ここから始まる長浜城
高知市長浜
雪蹊寺の背後の山に
かつて長浜城があった
秦神社の西の道を上り
西宮神社より尾根道を登る
金網を越えてさらに上へ
詰の段は土塁に囲まれており
南側はよく残っている
ここに長宗我部軍300人が攻め寄せた
激しい雨の夜だったという
城主大窪美作守は
家の子郎等を集め
酒宴を催していたという
城は火をつけられ
一気に攻め寄せられた
城兵は我先に逃げ
討ち取られたり生け捕られたり
この城攻めから
長宗我部の四国平定は始まった
ここから長宗我部の
未来が見える
無限の空を抱きしめ
僕らは生きていくんだ

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2011年10月30日 (日)

神無月の日々 今後の予定

10月の活動は以下の通りでした。

14日、長宗我部を語る会で、「中富川合戦前夜」を語りました。

22日、高知市役所前で行われた大高坂松王丸祭で「大高坂松王丸と南北決戦」を語りました。

今後の予定は以下の通りです。

11月11日、長宗我部を語る会で、「中富川合戦」を語ります。

午後7時ー8時半、はりまや町3丁目20-1北街ビル2F

088-882-3793です。

11月23日、(勤労感謝の日)、高知市長浜の秦神社で長宗我部慰霊祭があります。

午前10時から11時半まで。

お昼は、雪蹊寺本堂でお弁当をいただきます。

要予約1000円。088-882-3793

午後は、その場で「長宗我部トーキング」

午後1時ー3時半まで。

参加無料。ぜひお越しください。

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2011年10月27日 (木)

長宗我部紀行23

(タイトル)毘沙門堂にて信親を想う
南国市岡豊町滝本にある毘沙門の滝
土佐統一の後元親もここを訪れ
蜷川道標に歌を詠ませたりしている
その4年後14歳の信親は
ここに毘沙門堂を建立した
滝に向かって池の右脇の道を行くと
右手に見える朱塗りのお堂
毘沙門天は軍神だから
時々岡豊から馬を駆けさせ
ここで武運長久を祈ったか
時には夜通し籠ったりもしただろう
赤い橋からは毘沙門の滝がよく見える
二段に分かれた見事な滝だ
ここで滝に打たれた事もあるかもしれない
信親は元親の期待を一身に背負い
文武両道の師匠から教えを受けて
戦国最高の武将となるべく育てられた
将来を嘱望されていたのに
22歳で死んでしまったのは
余りにも惜しい事だった
それが長宗我部の運命も変えた
信親を慕う人にはぜひここに来てほしい
ここは信親を想うにはよい場所だ
まさに聖地なのだから

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2011年10月12日 (水)

長宗我部紀行22

(タイトル)佐竹氏の本拠地を訪ねる
中土佐町久礼の城山
久礼中学校の前の道を上り
丸太を敷いた階段を上り遊歩道を行く
二ノ段からは堀切がよく見える
虎口を通って詰ノ段へ
ここに櫓と蔵が3棟あったとか
細長い地形で土塁に囲まれている
「久礼城跡 佐竹氏居城」の石柱
天水の井戸跡
代々の城主を祀った佐竹神社
久礼小学校には中ノ城
金比羅山には居住した下ノ城があったとか
この大きさは佐竹氏の底力を感じさせる
佐竹氏は津野の配下であったが
実に巧みに一条につき
そして長宗我部に寝返った
その後もしぶとく生き延びて
子孫は今も多く多方面で活躍している
中土佐町上の加江土居に
善賢寺という寺がある
そこに上の加江城があった
元親の三女の嫁いだ城だ
ここは少し僻遠に過ぎるかもしれない
須崎市安和も佐竹領だった
佐竹氏は侮れない

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2011年10月 8日 (土)

長月の日々 今後の予定

9月の活動は以下の通りでした。

9日、「長宗我部を語る会」で「土佐物語」12巻後半を語りました。

16日、ザ・サンセット・ライブラリーで「岡田以蔵は志士だった」を語りました。

大雨の中来てくださった方には、感謝します。

25日、丸の内緑地で開催された「自然エネルギーで行こう!エコな祭り」で、「邪馬台国は四国にあった」を語りました。

天皇の祖先が、土佐人をたくさん殺したなどと不穏当な発言を多々しましたが、想像豊かな話をするというのは楽しいものでした。12月にも語るかもしれません。

今後の予定は以下の通りです。

10月14日、「長宗我部を語る会」で「中富川合戦まで」を語ります。

いつものように、はりまや町3丁目20-1 北街ビル2階(外から上がれます)

ゆうあい工房088-882-3793です。

時間は、午後7時ー8時半。

お気軽にお越しください。会費:300円。

10月22日午後3時から、高知市役所前で、「大高坂松王丸と南北合戦」を語ります。

大高坂松王丸祭の一環です。

11月11日、「長宗我部を語る会」

11月23日、高知市長浜の秦神社で「長宗我部慰霊祭」、その午後には、雪蹊寺本堂で、「長宗我部トーキング」を行います。無料。千客万来です。

あっという間に1年経つような感じがします。

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2011年9月22日 (木)

長宗我部元親には政略結婚の概念が無かった

9月11日、佐竹一族の方々と一緒に高知県中土佐町にある久礼城跡に登りました。
そこで、考えたことを述べます。
それは、元親には政略結婚の概念が無かったということです。
以前から、元親の三女(阿古姫)と四女の結婚が不思議でした。
名も無い所に嫁いでいるからです。
三女は、まだ佐竹氏というある程度名の知れた一族に嫁いでいるのですが、久礼城の当主義直やその息子親辰ではなく、義直の弟で、上の加江城主義秀の息子親直に嫁いでいるのです。
どうも家格が釣り合いません。
中土佐町教育委員会に長年勤務した林勇作さんに質問をぶつけてみました。
「義直が一条から長宗我部に寝返った時、義直の弟義秀が、岡豊城に、人質に行ったが、この義直は、弓の名手であったので、見込んで、その息子に三女を嫁がせたのでしょう」という事でした。
別に反論はしませんでしたが、これはどうも納得し難い話です。
人質の息子に、長宗我部の姫を嫁がせるでしょうか。
三女が生まれたのは、1573、74年と思われます。1570年代後半から80年代前半にかけては、四国平定戦争が行われているところですから、四国内の名のある一族を味方につけるために、政略結婚を進めてもよさそうなものです。
四女に至っては、吉松十右衛門に嫁いでいます。
そうとう詳しい人でも、こんな名前知らないのではないでしょうか。
本山氏に属していて長宗我部に寝返った秦泉寺氏の一族で、万々城主でした。
四国最大の武将である長宗我部元親の姫君が、なぜ上の加江城主や万々城主に嫁がなくてはならないでしょうか。
不思議でなりません。
長宗我部ファンクラブのある会員の説では、恋愛だという事ですが、確かにそうとでも考えないと、説明がつきません。
勿論、相思相愛の恋愛を育む時間や機会は無かったでしょうから、三女は、岡豊城に来た親直を垣間見て、一目惚れして、押しかけ女房のように嫁いだのではないかと考えられるのです。
それを許す元親も本当はどうかしています。(そこも魅力だということもできますが)
明らかに戦国の常識からかけ離れている。
当然、政略結婚を考え、行うべきだったのではないでしょうか。
元親はフェミニストとも言えるでしょうが、この点では、政略に欠けており、時代の常識から逸脱しています。
四国最大の武将になっても、岡豊三千貫の領主の意識が抜けなかったのでしょうか。
元親の意識・認識をさらに追ってみたいところです。
序に長女と次女の婚姻も見ておきますと
長女は、一条兼定の嫡男内政に嫁いでいます。
これは主筋なので、一応もっともな婚姻とも言えますが、既に兼定はいないのですから、何も長女を嫁がせる必要は無かったのではないかと考えられます。
それとも、元親は本当に内政が成長したら、幡多を返す心算だったのでしょうか。
内政をうまく取り込み、家臣のようにしていくには、長女を与える必要があったのか、この辺はわかりにくいところです。
次女は、弟吉良親貞の長男吉良親実に嫁がせています。
これは、従兄弟同士の婚姻であり、同族婚です。
弟亡き後、その息子親実とのつながりを強めようとする意図はわかりますが、娘をやらなくても、他の方法もあったはずです。
どうも、十分に考えた上での婚姻とは考えがたい。
十分すぎるほど考える元親が、この一連のうかつな婚姻はどうしたことでしょうか。
さらに深く研究してみたいところですが、とにかく元親に、政略結婚の概念が無かったことは確かなようです。

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2011年9月 1日 (木)

葉月の日々 今後の予定

8月は以下のような次第でした。

1日、NPO人と地域の研究所主催の「サマーフェスタ」で、高校生を相手に、「本当の長宗我部元親」と題して話をしてきたのですが、これが大失敗でした。

時間配分が狂い、高校生に大いに話してもらおうとしたのですが、あまり乗ってくれず、また予定していたことを言う時間が足りずで、何か一人で一方通行に話してしまい、伝わらなかったようでした。やはりおばさんは反応がダイレクトでいいのですが、高校生は、いつもはおしゃべりしていても、講義の中では頑なで、話してくれず、少し当てが外れました。

5日、ザ・サンセット・ライブラリーという飲み屋で、「あの頃にはモンローがいた」というタイトルで、マリリン・モンローの映画と人生を語りました。このために、高知市民図書館の視聴覚ライブラリーに毎日通い(15kmの道のりを自転車で往復し)、モンロー映画を見直したのでした。

おかげさまで、結構好評でした。芸人にとっては、評価してもらう事が何よりの喜びです。

お褒めの言葉を書き込んでくれた弥二郎さん、ありがとうございました。

19日、「長宗我部を語る会」で、「怪談 7人みさき」を語りました。

連合高知元会長の岡林俊司さん(全労済高知県本部本部長)からは、75点の出来だったと評価してもらいました。何かの折には使っていただけると嬉しいところです。

23日、吉本の住みます芸人の淀家萬月さんと一緒に、お遍路を少ししました。大日寺から、国分寺まで一部歩き、さらに岡豊城の櫓まで案内しました。

8月の活動は以上です。

9月は、9日に、「長宗我部を語る会」があり、「土佐物語」の12巻後半「四国統一に向けての様々な戦い」を語ります。

それ以降は特に予定はありません。

お声がかかるのを待っています。

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