文化・芸術

2007年12月19日 (水)

三宝の思想を展開する(まとめと展望)

聖徳太子の十七条憲法第二条「篤く三宝を敬え~」から色んなことを考え、論じてきました。

この条文は仏教勢力によって都合のいいように書き換えられた可能性があるということが出発点でした。

本当の太子の思想はまだ十分に掴み得ていないし、今後も探求せねばなりません。

ただそれを素材として思索を深めることは有意義なことだと思います。

人間は不完全な生き物ですから、人間の作った思想が絶対ではありえません。

神が創った思想であっても、それを解釈し行動化するのは人間ですからやはり絶対ではないのです。

一つの思想を絶対化してしまう「原理主義者」となってしまっては、多様なものを受け入れることもよりよいものに移ることも出来なくなります。

そもそも対話ができないでしょう。

そこには対立のみが残ります。

同じ思想を持つものだけと付き合うなら問題はないのかもしれませんが、現実の世界ではそうもいきません。

異なる思想を持つもの同士の間に、何もつながり共通理解も生まれなければ、よくて無視悪ければ否定しあう・殺しあうことになりかねません。

異なる思想を持つ者が出会ったら、そこで新しい思想を紡いでいくくらいの気持ちがあってもいいと思います。

それくらい出会いは大切です。

全ての思想に先んじて、命は大切にされねばなりません。命を否定できる思想など許されてはなりません。

一つの思想で十分でないならば(ないのですから)、いくつかの思想を調和融合させることを試みるべきです。

キリスト教では対立する考え・説を和解・融合させることをシンクレティズムと呼び、良くないもの・価値のないものとしていますが、本当はそれこそが大切です。

対立するのではなく、色々な思想の共通点をみつけ、新たな思想を目指し、その場に最も適した解決を求めていくことが大切です。

対立を激化させるのではなく和らぐ方向へもっていくことは可能です。

それは我々一人ひとりの心がまえと行動にかかっています。

各自が一つの思想に安住するのではなく、それぞれの三宝の思想を創造するとよいでしょう。

自分の心が和らぎ、人との関係も和らぐなら、やがて世界も平和になるでしょう。

日本人は伝統的にそういうことをしてきたし得意なはずです。

和を目指すことは今後の世界にますます重要になるでしょう。

いい具合に道が開けることを願っています。

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2007年12月17日 (月)

三宝の思想を展開する9

今回は、仏教・儒教・神道を三位一体とした三宝の思想を考えてみましょう。

聖徳太子が体験した仏教と神道の対立は、宗教的対立というより、蘇我氏と物部氏との政治的対立の側面が強いようです。

仏教と神道は対立することなく調和融合することができます。

実際、神仏習合思想が起こりました。

但し、本地垂迹説のごとく仏教の仏が本地で神道の神がその化身と考えてしまうとどこか神道を軽んじているように受け取られてしまいます。

仏教では必ずしも如来や菩薩をもちださなくてもよいのですから、神道の神をまず大切にするとよいと思われます。

多くの神を認める神道なら、仏教の如来・菩薩が多少増えたところでどうということはありません。

我々の根底には神道的なものがあり、意識化しにくいところまで影響力を持っており、気質化しているとも言えます。

神道を大切にするとよいでしょう、絶対化してはなりませんが。

仏教は、世界の根源的な摂理・法則として、儒教は、日常道徳・生活倫理として受け入れ、付け加えていけばうまく融合できるでしょう。

それぞれがより影響力を発揮する分野があるのです。

仏教より「四苦」を、神道より「祓い清めによる再生」を、儒教より「中庸」を取り出してみましょう。

この世は苦しみに満ちていて、自分ではどうにもならないことばかりですが、祓い清めることで穢れを拭い、生命力を取り戻して元気になれます。そして生活では中庸と秩序を重んじて生きていけばいいのです。

神様を大切にして、仏教を学び、儒教道徳で生きていく事は、今まで多くの日本人がしてきたことです。

何も対立することはなかったのです。

我々はもともと対立せずにその場を収め、和らぐ生き方ができていたのです。

これらは最も太子の思想に近いものではないかと思われます。

仏教は尊重しましたが、仏教を利用し絶対化して己の権力拡大に利用すること(蘇我氏や藤原氏がしたこと)は否定したはずです。

一つの考えを絶対化するのではなく、多くのものを受け入れ調和融合していく視点に立ったほうが、豊かな人生が送れるように思えます。

自らを知り、相手に尽くし(せめて邪魔をしないようにして)、儒教道徳を大切にしながら、融通無碍に生きていくことが理想であると考えます。

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2007年12月11日 (火)

三宝の思想を展開する8

これまで聖徳太子の求めていたかもしれない三宝の思想を求めそれを発展させて、今後の役に立たせたいと述べてきました。

これからは一度原点に帰って現実にあったであろう三宝の思想を述べてみたいと思います。

仏教を受け入れるか否か、蘇我氏と物部氏の対立から思考を深めた太子にとって、最も直面した問題は仏教と神道の調和であったろうと思われます。

そこで仏教・儒教・神道を三位一体とする三宝の思想を展開してみます。

今回はその前段階として神道(太子が接していた古神道)についてまとめます。

神道の根源には大自然への畏怖と感謝があります。

カミとは目に見えない大きな力のことです。

「カミ」の「カ」とはケと同じで命を表しています。

全てのものに命を見出すアニミズムから始まっていることがわかります。

ヒトはカミより命を授けられている本来は神聖な存在ですが、様々な原因によってこの命(生命力)を無くしてしまいます。

ケが枯れる状態がケガレです。それは生命力の消失と捉えられます。

ケガレは悪しきものですから払わねばなりません。

そのために禊、祓い、祭りをします。

祭りは本来ヒトがカミに近づくことによって生命力を取り戻す行事です。

例えば、捧げた供物に対しカミの力に宿ってもらい、それを頂くことでケガレを払い、生命力を取り戻すのです。

農業・農耕儀礼とも深く結びついています。

神道が大切にする価値観は、明・浄・正・直です。明るくきよらかで正しく素直であることです。

言霊信仰もあります。カミは全てのものに宿るので言葉にも宿ります。本当に力を発揮するのはカミの威徳を宿した言葉だけですが、これが日本人の言葉に対する感性、忌み言葉などにつながっているでしょう。

八百万の神からもわかる通り多神教であり、教祖・教義・絶対的戒律・組織もありませんし、罪や救済も説きません。

ヒトは本来善なるものですから不都合があれば清めたらいいのです。

清めてやり直しをすることができるのです。

救済は説きませんが、救われることはできるという教えです。

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2007年11月30日 (金)

三宝の思想を展開する7

 キリスト教・イスラム教・仏教による三宝の思想を展開してみます。

キリスト教もイスラム教も一神教ですが、一神教同士が対立すると収まりません。これまでにも今も多くの戦争の原因の一つとなっています。

イスラム教ではイエスを預言者として認めているのですが、キリスト教側はイエスの神格化をやめることは難しいでしょう。

イエスの神格化はローマ帝国で国教化する際に決めたことであり、イエスが人間であるという教説はその後も出たという史実があったとしてもです。

基本的には、自分達が絶対正しいと思ったらよいでしょう。

但し相手が間違っていると思えたとしても相手の価値観・宗教を尊重して受け入れることです。

相手の信仰が間違っていると思えたとしても相手の人間性が確かなものであれば付き合えるはずです。

いろんなレベルで相手を理解しようとして付き合える部分で付き合うとよいでしょう。

付き合えないとしても相手の邪魔はしてはなりません。

一神教・絶対主義者同士が対立せずに付き合うためには、日常生活のレベルを大事にするとよいでしょう。

イスラムでは神はアッラーだけですが、天使は信じているのでキリスト教の聖霊や如来を認める余地はあります。偶像崇拝は禁じられているが、崇拝ではなく挨拶をしているのだと考えてもらえばいい。

イスラム教の「神への絶対的服従」・キリスト教の「愛」・仏教の「空・慈悲」を基に展開してみましょう。

イスラム教も仏教も戒律が厳しいですが、戒律を守れない人にも愛・慈悲をもって接してもらえればいいのではないかと思います。

人間は基本的に神に従い、聖典を尊重して生きればいいのですが、人間は不完全であり、間違いを犯してしまいます。

その時ただ責めるのではなく、やり直しの機会を与えてあげることが大切です。

人間は関係を基本としているので、相手には慈悲心を持って接しなくてはなりません。

どんなに神が絶対であろうと人間関係は相互作用を基本としていることは、イスラム教徒であっても認めるでしょう。

そうでなければ、人間関係などありえません。

ただイスラム教徒はいざとなるとコーランに従います。

付き合うこちらが彼らの行動様式を理解し尊重すればよいでしょう。

全ての人が西欧式の行動をしなくてはならないわけではありませんから。

これらは全ての原理主義者にも言えることです。

原理主義者とのコミュニケーションは難しいですが、地道な関わりが必要です。

今の世の中にはそれが何より大切だと思います。

正邪・善悪に重点を置くのではなく、関係を大切にすることから始めたいものです。

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2007年11月26日 (月)

三宝の思想を展開する6

世界三大宗教(キリスト教・イスラム教・仏教)を三位一体とする三宝の思想を展開したいと思います。

その前段階として今回はイスラム教についてまとめておきます。

イスラムとは神への服従を表すアラビア語から出ており、信徒を表すムスリムとは絶対的服従者のことです。

唯一絶対なるアッラーに絶対的に服従することで心の平安を得ることができ、行為によって表された正しい信仰を続け、アッラーに仕えるなら、来世は天国に迎えられるという教えです。

救いは来世にあるのです。

アッラーが大天使ガブリエルを通じてムハンマド(マホメット)に示したことを蔵するコーランとイスラム法であるシャリーアをただ受け入れ服従することによって、救われるのです。間違うことはないのです。

アッラーは正義の執行者であり、守護者なのです。

正しい信仰は行為によって表現されねばなりません。そのために五つの行があります。

信仰告白、礼拝(一日5回)、喜捨、断食(ラマダーン)、巡礼(一生に一度はメッカに行くこと)です。

イスラム教では偶像崇拝を禁じています。アッラーの姿を表せるはずはないからです。

またムハンマドはアッラーの言葉を伝える預言者であることが強調され、崇拝することは禁じられています。

多くの神を崇拝することは絶対に許されません。

ユダヤ教・キリスト教の経典の価値も認め、イエスは預言者として尊重されますが、コーランが最も正しく絶対のものであり、ムハンマドは最後の預言者です。

最後の審判を信じているのはキリスト教と共通します。

アッラーは人間のあらゆる面に影響を与えるとされています。

また人類は一つの家族であり、富める者が貧しい者を援助する義務があることになっています。

井筒俊彦氏は全てを神の顕現とする宗教であるとまとめています。

アッラーが主体であり、中心であり、始まりであり、全てであると言えるでしょう。

アッラーという名前は、「神」を表すアラビア語から出ています。

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2007年11月22日 (木)

三宝の思想を展開する5

前回の補足をします。

仏教・儒教・キリスト教を統合する試みを続けます。

まず前提には、ある程度欲望を肯定し、「生」を大切にする立場がなくてはなりません。

欲望は否定しても出てくるものですから、うまく付き合っていくことが必要であり自然です。

その上で欲望の虚しさを悟っておくことも大事ですが。

儒教からは、自分に徳を修め相手に及ぼす思想(修己治人)を、仏教からは、全てのものは関り合っている思想(空)を、キリスト教からは、相手を思いやり大切にする思想(愛)を取り出してみましょう。

関係を基本にして、自分を高め相手を大切にしていく思想が出てくるのではないでしょうか。

人間関係においては、信じるもの・価値観が違っていることはよくあることです。

相手を同じ価値観に引きずり込んで、或いはそう思うことで安心したいという欲求は山々ですが、自分の考えを押し付けないことが礼儀です。

考えが違っていても信じられる所・通じる所があれば、関係を深めることもできるし、協力することもできます。

信じられる所をどこに見出すかです。

書面による契約でしょうか。

相手が契約に価値をおいてなければ役に立たないでしょう。

相手の立場・価値観を理解することから始めなくてはならないでしょう。自分の価値観で判断・評価するのではなくあくまで相手の価値観を尊重することです。

違っていても共存はできるのです。豊かな関係を築くこともできるはずです。

関わりをあきらめない事が基本です。もちろん現実には違いすぎていてあきらめなくてはならない場合もあるでしょう。そこは世俗的合理主義でいくのです。

自分に何か間違いがあった場合・罪を犯したとき、「神」に告白懺悔して許しを乞い、再び日常に戻るのも一つの道であり、責任を取れる範囲で取って、同じ過ちをしないようにしてさらに徳を積むのも一つの道です。

神仏を信じ、崇拝することは大切ですが、一方でその神仏すら絶対視しないことも大切です。

全てが相対的だと考えると絶対的に確かで信じられるものが欲しくなるのも人情です。

神を絶対視してもよいでしょう。確かに神は絶対的な存在です。

しかし、人間・社会に絶対性を求めてはなりません。

この世は相対性によって成り立っているからです。

聖徳太子の確立しようとしたものがこのようなものだったという保証はありませんが、三宝の思想は今の私たちに必要だと思います。

次回は世界の三大宗教で考えてみたいと思います。

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2007年11月21日 (水)

三宝の思想を展開する4

今回は、仏教・儒教・キリスト教を統合する思想を展開してみます。

仏教は多神教、キリスト教は一神教ですが、多神教と一神教は統合できるのでしょうか?

華厳の思想を使えば可能かもしれません。

一切の中に一が遍満していて、一の中に一切が含まれるというものです。

唯一の絶対神の中に多くの如来・菩薩が含まれる、それらは「神」の化身と考えるのです。

如来・菩薩を神と認めたくない人には、聖霊と捉えてもよいでしょう。それでも三位一体論によって究極には一つになります。

多くの如来・菩薩の中に一人の神の働きを認め、一人の神の色々な姿を認めるなら統合は可能です。

対立することなく、一神教の力強さと多神教の寛容さ・豊かさを併せ持つことができるのです。

仏教や儒教では、始原や終末への言及が少ないので、キリスト教の天地創造や最後の審判は半ば受け入れ安いと考えられます。

しかし、全ての思想は閉じられ絶対化すると生命力を失うのですから、他の可能性・意見も受け入れられる寛容さを失ってはならないです。

進化論を信じている人を排除するようではいけないのです。

マリア観音やイエス如来が出現してもいいし、天使の中に如来・菩薩がいてもいいと思います。

相対性を基本にしながら絶対性を仮定するあり方をとるとよいでしょう。

それは、多様な考え方を認めていくことにほかなりません。

自分・家族など回りの人を大切にするのは当然です。しかしいったんはその立場を離れて考えてみるのです。

立場・関係を重視しつつ、それを外して考えることも必要かもしれません。

ただし自己中心になるのは避けなくてはなりません。

キリスト教の「愛」、仏教の「空・慈悲」、儒教の「中庸・仁」を統合して、自分・相手・相互関係・社会全てを大切にできるあり方を模索するとよいでしょう。

全てを大切にしながら、全てのこだわり・執着は捨てる。

難しいことではありますが、この矛盾を解決する道・生き方を達成できる時こそ未来は開けるでしょう。

異なる意見・思想も、それが尊敬するに足るものであれば、自分の中に取り込んでいくのがよいと考えます。

矛盾を恐れてはなりません。

多くのものが自分の中にあれば、どんな人とも通じるものを持てます。通じるなら豊かな人間関係を築くこともできるし、成長・成熟も可能となります。

三宝の思想の確立に人類の未来はかかっているのかもしれません。

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2007年11月20日 (火)

三宝の思想を展開する3

少し中断していた三宝の思想を続けます。

今回は儒教についてまとめます。

儒教は、中国古来の思想に孔子の思想が加味されて成り立っています。

まず「天」への信仰があります。天に代わって天下を治めるのが天子ですが、有徳者でなくてはなりません。もし徳がなくなれば、天は災害を起こすなどして警告し、それでも改まらなければ、新たな有徳者を天子に任命するというものです。

天命思想・革命思想です。

(節度は必要ですが)欲望を肯定し、人生に執着することをよしとする態度もあります。現実や実在を大事にする志向から発しているものでしょう。

白川静氏によれば、孔子は巫女の私生児だったということです。

当然神秘的なもの・宗教などへの嗜好を受け継いでいたのでしょうが、(40代で盛んに易経の研究をしたのはその現れかもしれません)、むしろ政治の現状に嘆き、政治思想を大成する方向に向かいました。

徳のある物が上に立たねばならないのに、春秋時代の当時は諸国が乱れきっていたので、自分自身を治め、有徳者を育成することに力を注ぎました。

そうすれば当然、天が自分に政治の場を与えることになるだろうと考えたのです。不遇をかこちながら野心的であり、一時期は魯の官職を得、力を発揮することもありましたが、殆どは研究と教育の人生だったと言えるでしょう。

儒教は、士太夫(官僚)として人民を治めるための政治学の側面が大きいです。

簡単にまとめます。

五倫五常を守ること。五倫は君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友関係のことでそれぞれの立場を守ることが前提です。五常は仁・義・礼・智・信のことです。

仁は思いやりであり、愛することですが、上下関係を前提にしており、差別も当然視しています。身近なものをより愛するのは当然ということです。身近なものから広げて人類愛などにしていけばいいという立場です。

義は正しいこと、礼は権威に服して適切に行動する規範、智は善悪の区別、信は嘘偽りのない心のあり方です。

孔子は家族関係を重視しました。孝悌道徳の普遍化が仁、その実践が礼とも説きました。

修己治人。己を修めて人を治める、民を善導することです。まず自ら徳を治めなくてはならないのです。そして「徳は孤ならず必ず隣あり」となるのです。

天人合一。天と人が一つになるように、全て天(自然の理法)に従わなくてはならないということです。

世俗的合理主義。世俗的なことを大切にして、しかも理のあることにしていかなくてはならないということです。目指すところは「中庸」です。

儒学は、漢の武帝によって国教となりました。中国のみならず周辺諸国に影響を与えました。

体制維持には有効ですが、人間関係を規定しすぎ、多様な価値観を認めない狭隘さもあります。

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2007年11月16日 (金)

聖徳太子幻想3

古事記の内容には聖徳太子の思想が込められていると前回述べました。

どこまでが太子の思想なのかわからないですが、古事記の内容を吟味しながら検討してみたいと思います。

古事記というと最初に思い出されるのは、イザナギ、イザナミの国産み神話ではないでしょうか。

世界中に天地創造の神話がありますが、古事記の国産み神話は独特のものがあるように思います。

まず、超越的な力を持つ絶対的な神が独りで創造したのではなく、男性神と女性神との協力によって行われていることです。

これは、唯一の原理によって成り立つのではないことを象徴しているように思われます。

更に最初イザナミから声をかけることによって失敗をしています。

これは母系社会から父系社会への移行、男性原理を中心にすることを意味しているのかもしれません。

実際、アマテラス他の三貴子はイザナギから生まれています。

しかしアマテラスは女性神なので、完全に父系性に移行したのではなく混在・混合・融合などの形を表しているのかもしれません。

イザナギ、イザナミの存在・行動を軽視してはなりません。

二神の国産みは「性交」によってなされています。これは異質なものの結合による創造、「聖なる結婚(ヒエロガモス)」と解釈するのが妥当とは思いますが、最初に性交(セックス)があるということは重要な点です。

全ては性的なものから生まれるというメッセージを読み取るのは行き過ぎでしょうか。

そうだとしても、世界は男性原理だけでも女性原理だけでも成り立たない、双方の協力・融合によって成り立つというメッセージを読み取るのは間違いではないと思います。

そこには女性を大切にする太子の思想が込められているように感じられます。

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2007年10月31日 (水)

三宝の思想を展開する2

前回に続きます。

今回はキリスト教についてまとめます。

ずっと景教(ネストリウス派キリスト教)を出してきましたが、単純なミスでした。

景教が中国に正式に伝わったのは聖徳太子の死後でした。

しかし、東西の盛んな交流からして太子が人伝えにでもキリスト教を知っていたことは大いに考えられます。

太子が触れたであろうキリスト教の形を想像しながらまとめてみます。

ちなみに、三位一体論がニケーア公会議にて承認されたのは325年、旧約・新約聖書が現在の形に編纂されたのは397年です。太子の時代は2世紀後です。

唯一の絶対的人格神が全てのものを創造されたのですが、最後に創造した人間は、神を敬うことを忘れ、罪を犯すようになりました。

そこで神は、人間を愛するが故にイエスをキリスト(救世主)として遣わされました。

十字架に架かることにより、人間の罪を償ったイエスは弟子たちの前に姿を顕した後、天上に昇り、現在は父である神の右側に座しています。

しかるべき時に、イエスは復活・再臨し、人類を救うことにより、神の国は実現します。

神への真実の愛を示すことは、イエス・キリストを通じてのみ可能です。

従って人間は神を信じ、イエスを信じなくてはなりません。

実際、神は三つの形で人間と関わりを持ちます。全能の人格を持つ神・子なるイエス・聖霊(人に宿り、啓示を与え、聖化へと導く霊)の三つです。(三位一体論)

神によって創造され、最後の審判において裁かれることや神が人類を救い神の国を実現させることからは神を主体にしていますが、神の似姿として最後に創造された人間は万物の霊長として、自然・他の動植物などを支配することが正当化されます。人間中心主義につながります。

科学技術や近代文明の背景にはキリスト教もあります。

キリスト教がユダヤ教から出ていることは周知の事実です。

ユダヤ教の厳格な律法主義から脱することを目指したイエスは生活している人間への愛を説きます。これも人間中心主義となります。

「汝自身を愛するように汝の隣人を愛せ」という教えはよく知られていますが、この隣人には異教徒や異邦人も含まれていたと考えられます。

実際、イエスの教えが、ユダヤ教をベースにしてミトラ神・ギリシア神・エジプト神など異郷の神への信仰とも融合できるものであった可能性は十分あります。

始まりにおいて母性的・柔軟であったキリスト教は、様々な理由から父性的で絶対性を重んじるものになったと考えられます。

信者は正義や絶対的なものを愛します。そして自己肯定的で前向きです。

それは善行や社会活動に活かされますが、独善に陥ったり非人間的になる危険性もあります。

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