地域社会

2009年12月14日 (月)

土佐人の物語43(まとめ)

長らく書き続けてきた「土佐人の物語」もまとめをするところに来ました。

世界全体が、混乱と閉塞状況にある現在、土佐人にとって大切なことは、他から金を奪い取ろうとすることではなく、自分たちの魅力をブラッシュアップすることです。

そして、安心して生きられる経済思想を確立して、それを具体化させることです。

このことはナカちゃんが言う通りなのです。

この一連の論考(と言えるほどのものでもないですが)が、土佐人を理解する一助になれば幸いと思っています。

古代の土佐は、女王を象徴的に戴く部族共同体の連合体であったと考えてみました。

(邪馬台国四国山上説を採用しています)

当時は、一君万民社会であったと想像できます。

土佐には、大規模農業が発展しなかったので、あまり組織的労働が必要ではなく、古代の精神・習俗・信仰が残りました。

人間の序列化が進まなかったということです。

土佐の持つ自由主義と勤皇主義、一君の存在と平等思想は、矛盾なく共存していたのです。

その後、大和朝廷に征服され、支配されました。

土佐人も中央に対抗しようとしたとは思いますが、大和政権を凌駕することはできなかったのです。

この過程で、母系社会を無理に父系社会に変えるなど、女性原理を抑圧して、男性原理を確立しようとして失敗したように思えます。

基本的には、女性的で優しく大らかであるのに、強がったり粗暴ぶったりするところに表れています。

土佐人は、多くのギャップ・矛盾を抱えているのです。

だから常に不安であり、自信がもてないのです。

タイプで言えば、思考タイプです。

女性性が強い人種は、左脳が活性化していますが、左脳が言語脳であることはご存知のことと思います。

言語能力に秀でているのです。

但し、言語能力が高いことが思考能力の高さを証明するものでないことは言うまでもありません。

言語を使い、論理能力・抽象化能力を鍛えることによって、思考能力は育ってきます。

土佐人は、磨かれざる天才です。

言語能力が高く、自分の頭で考えようという意欲も持っているからです。

しかし惜しいことに、学習能力が低いし、学習に必要な忍耐力・持久力に欠けています。

抽象化より具体化を好むので、抽象化能力が鍛えられないのです。

現在の学問分野はどれも高度な抽象化によって成り立っているので、学問的に評価されたり、業績を上げるのが難しい状況です。

よくナカちゃんは、土佐人には批判能力があり、弁証法でいうところの、正・反・合の反論を作る役割を果たせばいいと言っています。

その通りなのですが、残念ながら今の土佐人にはきちんとした批判・反論を提出する能力はありません。

基本的な思考能力・論理力が鍛えられていませんから。

本能的に、直感的に拒否しているくらいが実情です。

土佐人によく見られるのは、独自の発想・思考です。

それは面白くはありますし、また凝り固まったアカデミズムの壁を壊す力になることもありますが、多くは一知半解の独善論です。

また言葉にこだわるので、相手との些細な違いが許せず、共同で論を進めていくことが中々できません。

一人一家、一人一党の状況となります。

多くの場合、自分を絶対化し、相手を非難することに終始してしまいます。

その底には、不安やコンプレックスが潜んでいるせいでもありましょう。

土佐人はもっと豊かに生きられるはずです。

来年は少しその辺を考えていきたいと思っています。

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2009年10月19日 (月)

土佐人の物語42(平成篇)

平成になってからの土佐を振り返ってみます。年号は平成です。

9年、土佐くろしお鉄道宿毛線開業、宿毛駅での事故も記憶に新しいところです。

10年、98豪雨、美術館水没。その他の痛ましい遭難がありました。しかしボランティア活動元年の様相も見せました。

11年、全国初の脳死判定。プライバシー侵害が問題となりました。

13年、西南豪雨、土佐清水を中心に被害にあいました。

14年、ごめんなはり線開業。

    よさこい高知国体開催。開催地が初めて天皇杯を取らなかった国体(現在に至るまで唯一)として、歴史に刻まれています。ここにも土佐人の独自志向がうかがえます。

15-16年、ハルウララブーム。小泉総理(当時)の発言もあり、一大フィーバーぶりを呈しました。映画にもなり、16年3月22日には、武豊騎手が騎乗し、13000人が押しかけました。

しかしハルウララはいつのまにか奪われてしまい、ブームは去りました。今はどうしているのでしょうか。 

18年、NHK大河ドラマに「巧妙が辻」。それほどは盛り上がりませんでした。

20年以降、映画のロケが相次いでいます。「わたしは貝になりたい」、「はりまやbridge」、「イケちゃんとぼく」。

21年、「パーマネントのばら」、「君が踊る、夏」。

来年22年は、大河ドラマに「龍馬伝」、高知駅前に「土佐・龍馬であい博」の会場を設け、様々に盛り上げようとしています。関係各位の努力には敬服します。しかし土佐は龍馬だけではない。

20年より盛り上がる長宗我部ブーム、元親は非常に魅力的な人物です。それを伝え、盛り上げていきたいものです。大河ドラマ化に微力を奉げています。

勿論他にも魅力的な人物は山ほどいます。それを掘り出し、伝えていこうと思っています。

21年9月27日高知新聞には、生コン事件の山崎圭次会長らを顕彰する記念碑建立計画の記事が出ていました。

法的に言えば、罰金刑を受けた犯罪者です。

しかし、義挙と称えられている。

江戸時代の中平善之進のように義民扱いを受けているように思われます。

土佐には、直接行動を尊ぶ伝統があるようです。

幸徳秋水も直接行動を勧めました。

法律遵守ではなく、自分の頭で考え判断する土佐人の面目躍如というところです。

これから土佐人はどうなるのか、まだまだ探究は続きます。

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2009年9月 8日 (火)

土佐人の物語41(戦後篇)

土佐人は激動の中を生きてきました。

戦後に限るわけではありませんが、常に台風に襲われ、風水害を受けてきました。

災害は、命や財産を突然不条理にも奪っていきます。

未来はあてになるものではなく、不確実であることを体験してきています。

世界全体が不確実である今こそ、力を発揮できるかもしれません。

慣れすぎていてそのままかもしれませんが。

昭和20年7月4日、高知大空襲、一面の焼け野原となる。

21年12月21日、南海大地震。

30年5月11日、紫雲丸遭難。

35年5月24日、チリ地震の津波により須崎などの堤防が決壊。

47年7月5日、繁藤災害。9月15日、比島山崩壊。

63年3月、上海列車事故。

台風以外にも多くの災難が起こっています。

戦後のトピックを少し挙げておきましょう。

昭和29年、よさこい祭り開始。

34年、ペギー葉山さんの「南国土佐を後にして」大ヒット。

43年、NHK大河ドラマで「竜馬がゆく」。土佐ブームが起こる。

46年、高知生コン事件。高知パルプ工場の廃液排水管に浦戸湾を守る会のリーダーたちが生コンクリートを流し込むという事件が起こりました。直接行動を重んじ、理解を示す土佐人らしい事件でした。土佐人の前に道はなく、土佐人の後に道はできるということを示しているようです。

47年、浦戸大橋完成。

48年、早明浦ダム完成。

土佐人にとっての昭和戦後がどういうものであったのか、いつかくわしく検証できたらよいと思っています。

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2009年8月24日 (月)

土佐人の物語40(或いは宗教論)

今回は、奥村多喜衛(1865-1951)などを手がかりにして、宗教を考えてみます。

奥村の父は、儒者であり、吉田東洋から儒学(朱子学)を学んでいます。

当然、南学系ですから、天皇に仕える精神を養成されたものと思われます。

奥村はその影響を受けています。

片岡健吉の秘書となり、洗礼を受け、カトリックの世界へ、同志社神学校に学ぶ。

ハワイに渡り、高知城そっくりのマキキ教会を作ります。

それは奥村の土佐への郷土愛、望郷の念を表していると言われています。

奥村の軌跡を見ると、武士の素養がキリスト教に発展したかのようです。

坂本直寛も古武士の風格を持っていたということです。

土佐人が江戸時代を通じて、形作り大事にしてきた主君としての天皇像、それが発展して世界原理としてのキリスト像となったように思われます。

もちろん西洋の文明・文化を取り入れる過程でキリスト教を尊重したという側面はあるでしょう。

しかし、多くの場合は和魂洋才のためでした。

土佐には本質を見極めようという気質があり、西洋の本質がキリスト教にあることを見抜き、キリスト教を取り入れようとした跡が見られます。

その点、非常に哲学的なのですが、具体性・実践性を愛すので、抽象的な哲学に仕上がらないのです。

感覚的に捉え、実感的に了解しています。

それでも本質を捉えています。

土佐人には、昔から絶対的なものを求める風潮があったので、(しかもそれは日常に近いと駄目です)、キリスト教に親みやすかったのです。

原風景としては、土俗的なアニミズムなのですが、宗教として一番合うのはキリスト教なのかもしれません。

明治維新期・自由民権運動期の土佐人の多くは、キリスト教徒になっています。

土佐人には、穏やかな仏教より、激しさを秘めたキリスト教が似合っているのかもしれません。

中でも土俗性を残していた原始キリスト教が良いのかもしれません。

一君万民思想から考えると、アラー以外は全て平等とするイスラム教がよりフィットするのかもしれませんが、あまり細かい戒律があったり、お酒が飲めないのは、土佐人には我慢できないことでしょう。

宗教には、救いになると同時に日常を壊す危険性があります。

自分の気質、土佐人の性(或いは業)を知り、人生を高めていける思想を持つことが望ましいです。

宗教よりも実践的な道徳・倫理が求められているようです。

「道」と表現するのがよいのかもしれません。

新しい道を模索するとき、土佐人力は発揮されるでしょう。

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2009年8月 3日 (月)

土佐人の物語39(昭和篇4)

萱野長知(1873-1947)という人がいました。

中国に渡り、孫文が中国革命同盟会を作ると、「革命評論」を創刊して、これを支援。

革命軍顧問に就任。

孫文の日本亡命を支援。

中国料理店を経営して民間の日中友好に尽力。

満州事変以後は平和交渉にあたる。

大きな活動をした人物ですが、あまり有名ではありません。

高知から、総選挙に出ますが、板垣退助・孫文らの推薦をもらいながら、落選しています。

戦後、貴族院議員となりますが、ほどなく事故死しました。

伴正一(1924-2001)という人もいました。

公を先にする儒教精神、武士道の人でした。

外務省に入り、大きな仕事をしますが、組織の中では葛藤を繰り返します。

青年海外協力隊の事務局長として隊員派遣のシステム整備に尽力します。

現在、協力隊事業が円滑に行われているのは、伴に負っているところが多いです。

北京公使を勤めた後、高知に帰ってきて、国政に三度挑戦しましたが、落選します。

「政治の風格」(吉岡逸夫、高陵社書店)を読むと、その人格の高さと土佐人らしさが伝わってきます。

土佐の外で活躍する土佐人は多いです。

水野龍(1859-1951)は南米への移民事業を成功させました。

しかし土佐では、意外と知られていず、評価もされていないことがあります。

ダライ・ラマ14世の通訳を務めた人の中にも高知出身の女性がいました。

これら多くの国内外で活躍する人々を的確に評価して、その力を借りていくことが大切です。

土佐人の課題です。

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2009年7月22日 (水)

土佐人の物語38(昭和篇3)

今回は、吉田茂(1878-1967)を取り上げます。

帝大法学部卒業後、外務省に入る。

田中内閣・浜口内閣で外務次官。

その後政界に入り、東久邇宮内閣・幣原内閣で外務大臣。

昭和21年自由党総裁となり、総理大臣となります。

サンフランシスコ対日講和会議に主席全権委員として出席し、平和条約調印。安保体制を含め、日本の戦後体制を作ります。

独善・頑固とよく批判されます。

これは、信念があり、決断力があるとの評価にも通じます。

外交官時代は、借金も関係強化の方策とみなすような外交の職人でした。

土佐人の具体化志向・目的志向が息づいています。

思想的には、頑固な親英米派であり、日独防共協定には反対しました。

根本は、「臣茂」の署名に象徴されるように、尊皇心が強く、反共です。

土佐には、古くから尊皇の流れがあります。

またその臣下としてあるべき道を伝える南学の流れもあります。

土佐人の熱き魂は、よりよい国づくりを目指し、実行しようとする流れを生み出します。

それは、ある面で国を背負うという自負心になります。

吉田茂にはその心がありました。

人間的には、円満とは言えないし、毀誉褒貶もありますが、戦後の日本を様々な問題から守ったことは確かです。

土佐人が、国を守ったよい例でしょう。

最後の国葬となったことにも十分満足していたことでしょう。

吉田茂が一番可愛がり、晩年の世話をさせた娘が、麻生和子であり、麻生総理のお母さんです。

麻生さんは、吉田茂と同じように日本を守ったでしょうか。

発言にはそういうものがあり、色々聞いていると、土佐人の血を感じることもあります。

行き過ぎた市場原理主義からの決別発言には、保守本来の面を感じます。

しかし、この1年うまく適応・対応したとは言えないでしょう。

麻生さんもいいキャラクターの持ち主なのですが、時と場所を得ないと、自分も回りも被害を被ります。

総理になったので、国民が被害を受けました。

国家の土台についてもっと考えられなくてはならなかったでしょう。

本日は7月22日、皆既日食の日でした。

古代社会では、日食は王朝の交代時期を表していました。

日食後の新しい太陽は、新たなる王の誕生を象徴しています。

時代が改まることを期待しています。

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2009年6月29日 (月)

土佐人の物語37(昭和篇2)

今回は、総理大臣浜口雄幸(1870-1931)を取り上げます。

官僚の後、政治家。

大正13年、加藤内閣で大蔵大臣、緊縮財政に取り組みます。

前年に関東大震災が起こっていましたから、当然の政策ですが、頑固で強い責任感のたまものでもあります。

浜口は空理空論を排し、責任ある政見の表明を心がけていました。

土佐人の具体性志向がうかがえます。

大正14年、城東中学校での講演で、「日本人には、国体より生ずる忠君愛国の立派な思想がある」と述べています。

土佐南学の流れも感じられます。

昭和2年の金融恐慌の混乱の中、そして世界恐慌の発生した昭和4年、立憲民政党総裁として、内閣総理大臣に就任します。

天皇大権を認め、君主統治の下で、普通選挙を実現します。

女性の参政権はなく、25才以上の男子に限られていましたが、ある意味、一君万民思想の実現と言えるかもしれません。

金解禁政策が有名です。

この当時、日本は金の輸出を停止していました。

世界は、金本位制をとっており、金の輸出を停止しているということは、日本の通貨に金の裏打ちを与えていない、世界から信用されない状況だったのです。

金解禁とは、日本通貨に裏打ちを与え、世界標準に戻すことでした。

経済の発展には必要な政策です。

しかし、世界恐慌の真っ只中、時期が少し悪かった。

「明日伸びんがため、今日縮む」と説得しましたが、通用したかどうか。

国会は乗り切ったとしても、国民には不満があったようです。

これには、内に厳しく外に合わせる思想、世界全体を公と捉え重視する思想が潜んでいたのですが、わかりにくかったかもしれません。

ロンドン軍縮条約締結も有名です。

第1次世界大戦以後は平和が到来し、協調外交の一環として行われたのですが、大国意識を持ち始めた国民にとっては納得いかないことだったようです。

東京駅で狙撃され、「男子の本懐である」との名ゼリフを残しました。

少し前、民主党の小沢さんも使ってましたから、寿命の長いセリフです。

男子たるもの一度は使ってみたいのかもしれません。

浜口は、土佐人らしさがうまく出て成功した実例です。

しかし、最後を全うできませんでした。

土佐人には悲劇がつきものなのでしょうか。

土佐の暮らしは日々喜劇に満ちているというのに。

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2009年6月17日 (水)

土佐人の物語36(昭和篇)

今回は、実業家にして政治家の片岡直温(なおはる、1859-1934)を取り上げます。

葉山村(現津野町)生まれ。

吉田東洋の設置した致道館に学び、明治14年上京。

内務省御用係を勤め、翌年立憲帝政党設立に参加。

明治22年からは、日本生命創立に関与して、副社長。

明治36年から大正8年まで、日本生命社長。

その後政界に入り、大正15年の第1次若槻内閣で大蔵大臣に就任。

昭和2年、議会答弁の時でした。

その頃は、大正12年の関東大震災による景気悪化が深刻になり、小規模な金融機関は行き詰まっていました。

景気について質問された片岡は、その深刻さを強調しようとするあまり、「今日、正午頃、渡辺銀行がとうとう破綻しました」と答弁してしまったのです。

正確には、その時はまだ破綻してはいませんでした。

しかし、取り付け騒ぎが起こり、渡辺銀行は破綻しました。

他の小さな銀行にも波及し、連鎖的に破綻していきました。

昭和の金融恐慌となりました。

鈴木商店なども破産しました。

世界恐慌(1929年)の2年前の出来事でした。

昭和金融恐慌は土佐人が引き起こしたことだったのです。

これらの責任を取って、若槻内閣は総辞職をしました。

片岡の答弁はお粗末すぎます。

大蔵大臣ともあろう者が、未確認情報を基に答弁をしてはいけないことは明らかです。

自分の立場・その影響も考えられていません。

しかし、土佐人にはよくあることです。

言語センス・能力はあるのですが、TPOや影響を読む力がないのです。

土佐人は考えなしに発言することが多いですが、それなりの立場の人間は注意すべきでしょう。

言葉は大事にしたいものです。

「口は災いのもと」とならないようにしなければなりません。

発言の前に、その影響を考えることが必要です。

昭和金融恐慌と世界恐慌の影響を受けた日本社会は、不況のどん底となり、未来への希望を無くし、軍部の増長を招きます。

太平洋戦争の出発点は、片岡の答弁にあったのかもしれません。

土佐人が戦争の原因を作った、勿論それほど直接つながってはいませんが、そう言うこともできます。

現代は、総理はじめ大臣の失言には皆なれっこになっていますが、もう一度一言の重みに想いをはせてみる事も大切でしょう。

さて、片岡直温という人物、日本生命の社長を長期間勤め、大蔵大臣にまでなったのですから、成功した人生と言えるでしょう。

しかし今、どれだけの人が片岡の名を覚えているでしょうか。

そしてその人生を知った時、どれだけの人が片岡を賞賛したり郷土の誇りにできるでしょうか。

一言の失言で人生が決定づけられる場合もあります。

いやはや言葉とは大変なものですね。

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2009年6月 1日 (月)

土佐人の物語35(大正篇2)

今回は、鈴木商店の大番頭金子直吉(1866-1944)を取り上げます。

名野川村(旧吾川村・現仁淀川町)生まれ。

高知城下で質屋に丁稚奉公しているとき、質物の「孫子」を読んで、商略を得ました。

二十歳のころ、神戸の鈴木商店の手代となり、鈴木商店を拡大させることに手腕をふるいます。

土佐人の攻めの強さを体現し、することなすこと面白いようにあたり、一時は日本一の売り上げを出すほどになります。

一地方の中小商店に過ぎなかったのに、三井・三菱との天下三分を計画するまでになります。(住友の立場はどうなるのでしょう)

天下を望む土佐人らしさがよく出ています。

土佐を愛し、息子たちは土佐で教育を受けさせ、土佐から人を呼び、一癖も二癖もある土佐人を使いこなしました。

「初夢や 太閤秀吉 奈翁(ナポレオン)」

金子が正月に作った俳句です。壮大さが伝わってきます。

「会計士などくそくらえ。まっしぐらに前進じゃ」

事業計画とか財務管理など二の次、とにかく攻めるのです。

しかし、不況の中鈴木商店だけ儲け太っていることに対し、不正の噂が立ち、大阪朝日などの新聞が標的にした記事を載せるようになります。

「鈴木は悪いことなぞしていない。いつかきっとわかるんじゃ」

金子は社員に言いましたが、噂は膨れ上がります。

自分が疚しくなければ理解されるという素朴な信念は、土佐人らしいですが、世間に対するアプローチ、自分をどうプロデュースするかという視点が欠けています。

鈴木商店は終に焼き討ちに遭います。

金子はその後も事業建て直しに奔走しますが、あまりうまくいったとはいえません。

攻めるに強く守るに弱い、これも土佐人の特質です。

よく土佐人はセールス力が弱いと言われますが、攻める力、売り込む力はあるのです。

足りないのは、守る力、耐える力、世間を掴む力(大衆心理を読む力)です。

金子は天下国家のための事業を鈴木でやろうとしていました。

しかし、世間には理解されていなかったようです。

むしろ、独り勝ちが、羨望と嫉妬を招いていました。

そういう状況を緩めようと西川支配人が、各所への寄付を計画しますが、そんな偽善は出来ないと金子は拒否します。

金子が大衆心理にもう少し通じていて、寄付をしていれば、焼き討ちはなかったことでしょう。

攻撃される理由が全くなくても攻められることはあります。

それをどう防ぐか、「孫子」には載ってなかったのでしょうか。

金子は劇的な人生を遂げましたが、商人として本当に成功したか評価は難しいです。

金子の墓は、高知市を見下ろす筆山の頂上にあります。

彼が、土佐を愛し、根っからの土佐人であったことは、間違いありません。

彼の次男武蔵は、哲学者で東大名誉教授でした。

ヘーゲルの「精神現象学」を翻訳・解説したことなどで知られています。

私のように少しでも哲学をかじった人間には忘れられない人物です。

西田幾太郎の娘と結婚しています。

土佐人に哲学は向かないということへの大きな反証となる人物です。

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2009年5月18日 (月)

土佐人の物語34(大正篇)

今回は、寺田寅彦(1878-1935)について考えます。

寺田は、ユニークな地球物理学者にして、文筆家です。

枠にはまらない土佐人らしい学者です。

日常身辺の諸現象をあくまで具体的に分析し、法則性を見つけていくところに独自性があります。

「藤の実の瞬間的はじけの機巧について」(英文)では藤の実のはじけ方を研究していますし、ガラス板の割れ方の研究などもしています。

夏目漱石「吾輩は猫である」にその辺をおもしろく描かれています。

日常から離れ、高度に抽象化していくのは、土佐人の苦手とするところです。

日常に即した視点から、展開する方法論は、日常から遊離した物理学などの自然科学、いや経済学などの社会科学にも、重要な示唆を与えることでしょう。

日常性をおろそかにしてはいけないのです。

日常から遊離したマネーゲームが経済を破綻させたのですから、日常を大切にして、再構築する必要があるように思います。

もちろん寺田は、日常性だけの学者ではありません。

ウェゲナーの大陸移動説に賛同し、日本に最初に紹介しました。

世界規模の大きい話が好きなのも土佐人的です。

「天災は忘れた頃にやってくる」という名言も残しています。

言語感覚が鋭く、名言を多く残すのも土佐人の特徴です。

寺田の名前が忘れられたとしても、この言葉は何かの災害が起こるたびに繰り返し語られるでしょう。

自分の言葉がずっと残っていくことは、思想家としては、最高に理想的なことです。

5・7・5と俳句形式になっているのも覚えやすくていいですよね。

寺田寅彦を大切にしていきたいものです。

土佐人に親しめる学問の世界を展開してくれていますので。

そういえば、牧野富太郎も極めて具体的な植物の世界を対象にしました。

日常性と具体性は土佐人に欠かせないポイントのようですね。

PS 5月23日、東京からくる長宗我部最高委員会のツアーの方々の前で講談をします。

岡豊城、歴史民俗資料館玄関前に午後1時集合になっています。

24日は、長浜の若宮八幡宮での元親初陣祭(11時より)でも講談をさせてもらいます。

どちらも内容は元親です。そのときの状況で変わりますので、詳しい時間は未定です。

興味がおありの方は、24日の方はご自由に、23日はご一報ください。

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