地域社会

2009年6月29日 (月)

土佐人の物語37(昭和篇2)

今回は、総理大臣浜口雄幸(1870-1931)を取り上げます。

官僚の後、政治家。

大正13年、加藤内閣で大蔵大臣、緊縮財政に取り組みます。

前年に関東大震災が起こっていましたから、当然の政策ですが、頑固で強い責任感のたまものでもあります。

浜口は空理空論を排し、責任ある政見の表明を心がけていました。

土佐人の具体性志向がうかがえます。

大正14年、城東中学校での講演で、「日本人には、国体より生ずる忠君愛国の立派な思想がある」と述べています。

土佐南学の流れも感じられます。

昭和2年の金融恐慌の混乱の中、そして世界恐慌の発生した昭和4年、立憲民政党総裁として、内閣総理大臣に就任します。

天皇大権を認め、君主統治の下で、普通選挙を実現します。

女性の参政権はなく、25才以上の男子に限られていましたが、ある意味、一君万民思想の実現と言えるかもしれません。

金解禁政策が有名です。

この当時、日本は金の輸出を停止していました。

世界は、金本位制をとっており、金の輸出を停止しているということは、日本の通貨に金の裏打ちを与えていない、世界から信用されない状況だったのです。

金解禁とは、日本通貨に裏打ちを与え、世界標準に戻すことでした。

経済の発展には必要な政策です。

しかし、世界恐慌の真っ只中、時期が少し悪かった。

「明日伸びんがため、今日縮む」と説得しましたが、通用したかどうか。

国会は乗り切ったとしても、国民には不満があったようです。

これには、内に厳しく外に合わせる思想、世界全体を公と捉え重視する思想が潜んでいたのですが、わかりにくかったかもしれません。

ロンドン軍縮条約締結も有名です。

第1次世界大戦以後は平和が到来し、協調外交の一環として行われたのですが、大国意識を持ち始めた国民にとっては納得いかないことだったようです。

東京駅で狙撃され、「男子の本懐である」との名ゼリフを残しました。

少し前、民主党の小沢さんも使ってましたから、寿命の長いセリフです。

男子たるもの一度は使ってみたいのかもしれません。

浜口は、土佐人らしさがうまく出て成功した実例です。

しかし、最後を全うできませんでした。

土佐人には悲劇がつきものなのでしょうか。

土佐の暮らしは日々喜劇に満ちているというのに。

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2009年6月17日 (水)

土佐人の物語36(昭和篇)

今回は、実業家にして政治家の片岡直温(なおはる、1859-1934)を取り上げます。

葉山村(現津野町)生まれ。

吉田東洋の設置した致道館に学び、明治14年上京。

内務省御用係を勤め、翌年立憲帝政党設立に参加。

明治22年からは、日本生命創立に関与して、副社長。

明治36年から大正8年まで、日本生命社長。

その後政界に入り、大正15年の第1次若槻内閣で大蔵大臣に就任。

昭和2年、議会答弁の時でした。

その頃は、大正12年の関東大震災による景気悪化が深刻になり、小規模な金融機関は行き詰まっていました。

景気について質問された片岡は、その深刻さを強調しようとするあまり、「今日、正午頃、渡辺銀行がとうとう破綻しました」と答弁してしまったのです。

正確には、その時はまだ破綻してはいませんでした。

しかし、取り付け騒ぎが起こり、渡辺銀行は破綻しました。

他の小さな銀行にも波及し、連鎖的に破綻していきました。

昭和の金融恐慌となりました。

鈴木商店なども破産しました。

世界恐慌(1929年)の2年前の出来事でした。

昭和金融恐慌は土佐人が引き起こしたことだったのです。

これらの責任を取って、若槻内閣は総辞職をしました。

片岡の答弁はお粗末すぎます。

大蔵大臣ともあろう者が、未確認情報を基に答弁をしてはいけないことは明らかです。

自分の立場・その影響も考えられていません。

しかし、土佐人にはよくあることです。

言語センス・能力はあるのですが、TPOや影響を読む力がないのです。

土佐人は考えなしに発言することが多いですが、それなりの立場の人間は注意すべきでしょう。

言葉は大事にしたいものです。

「口は災いのもと」とならないようにしなければなりません。

発言の前に、その影響を考えることが必要です。

昭和金融恐慌と世界恐慌の影響を受けた日本社会は、不況のどん底となり、未来への希望を無くし、軍部の増長を招きます。

太平洋戦争の出発点は、片岡の答弁にあったのかもしれません。

土佐人が戦争の原因を作った、勿論それほど直接つながってはいませんが、そう言うこともできます。

現代は、総理はじめ大臣の失言には皆なれっこになっていますが、もう一度一言の重みに想いをはせてみる事も大切でしょう。

さて、片岡直温という人物、日本生命の社長を長期間勤め、大蔵大臣にまでなったのですから、成功した人生と言えるでしょう。

しかし今、どれだけの人が片岡の名を覚えているでしょうか。

そしてその人生を知った時、どれだけの人が片岡を賞賛したり郷土の誇りにできるでしょうか。

一言の失言で人生が決定づけられる場合もあります。

いやはや言葉とは大変なものですね。

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2009年6月 1日 (月)

土佐人の物語35(大正篇2)

今回は、鈴木商店の大番頭金子直吉(1866-1944)を取り上げます。

名野川村(旧吾川村・現仁淀川町)生まれ。

高知城下で質屋に丁稚奉公しているとき、質物の「孫子」を読んで、商略を得ました。

二十歳のころ、神戸の鈴木商店の手代となり、鈴木商店を拡大させることに手腕をふるいます。

土佐人の攻めの強さを体現し、することなすこと面白いようにあたり、一時は日本一の売り上げを出すほどになります。

一地方の中小商店に過ぎなかったのに、三井・三菱との天下三分を計画するまでになります。(住友の立場はどうなるのでしょう)

天下を望む土佐人らしさがよく出ています。

土佐を愛し、息子たちは土佐で教育を受けさせ、土佐から人を呼び、一癖も二癖もある土佐人を使いこなしました。

「初夢や 太閤秀吉 奈翁(ナポレオン)」

金子が正月に作った俳句です。壮大さが伝わってきます。

「会計士などくそくらえ。まっしぐらに前進じゃ」

事業計画とか財務管理など二の次、とにかく攻めるのです。

しかし、不況の中鈴木商店だけ儲け太っていることに対し、不正の噂が立ち、大阪朝日などの新聞が標的にした記事を載せるようになります。

「鈴木は悪いことなぞしていない。いつかきっとわかるんじゃ」

金子は社員に言いましたが、噂は膨れ上がります。

自分が疚しくなければ理解されるという素朴な信念は、土佐人らしいですが、世間に対するアプローチ、自分をどうプロデュースするかという視点が欠けています。

鈴木商店は終に焼き討ちに遭います。

金子はその後も事業建て直しに奔走しますが、あまりうまくいったとはいえません。

攻めるに強く守るに弱い、これも土佐人の特質です。

よく土佐人はセールス力が弱いと言われますが、攻める力、売り込む力はあるのです。

足りないのは、守る力、耐える力、世間を掴む力(大衆心理を読む力)です。

金子は天下国家のための事業を鈴木でやろうとしていました。

しかし、世間には理解されていなかったようです。

むしろ、独り勝ちが、羨望と嫉妬を招いていました。

そういう状況を緩めようと西川支配人が、各所への寄付を計画しますが、そんな偽善は出来ないと金子は拒否します。

金子が大衆心理にもう少し通じていて、寄付をしていれば、焼き討ちはなかったことでしょう。

攻撃される理由が全くなくても攻められることはあります。

それをどう防ぐか、「孫子」には載ってなかったのでしょうか。

金子は劇的な人生を遂げましたが、商人として本当に成功したか評価は難しいです。

金子の墓は、高知市を見下ろす筆山の頂上にあります。

彼が、土佐を愛し、根っからの土佐人であったことは、間違いありません。

彼の次男武蔵は、哲学者で東大名誉教授でした。

ヘーゲルの「精神現象学」を翻訳・解説したことなどで知られています。

私のように少しでも哲学をかじった人間には忘れられない人物です。

西田幾太郎の娘と結婚しています。

土佐人に哲学は向かないということへの大きな反証となる人物です。

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2009年5月18日 (月)

土佐人の物語34(大正篇)

今回は、寺田寅彦(1878-1935)について考えます。

寺田は、ユニークな地球物理学者にして、文筆家です。

枠にはまらない土佐人らしい学者です。

日常身辺の諸現象をあくまで具体的に分析し、法則性を見つけていくところに独自性があります。

「藤の実の瞬間的はじけの機巧について」(英文)では藤の実のはじけ方を研究していますし、ガラス板の割れ方の研究などもしています。

夏目漱石「吾輩は猫である」にその辺をおもしろく描かれています。

日常から離れ、高度に抽象化していくのは、土佐人の苦手とするところです。

日常に即した視点から、展開する方法論は、日常から遊離した物理学などの自然科学、いや経済学などの社会科学にも、重要な示唆を与えることでしょう。

日常性をおろそかにしてはいけないのです。

日常から遊離したマネーゲームが経済を破綻させたのですから、日常を大切にして、再構築する必要があるように思います。

もちろん寺田は、日常性だけの学者ではありません。

ウェゲナーの大陸移動説に賛同し、日本に最初に紹介しました。

世界規模の大きい話が好きなのも土佐人的です。

「天災は忘れた頃にやってくる」という名言も残しています。

言語感覚が鋭く、名言を多く残すのも土佐人の特徴です。

寺田の名前が忘れられたとしても、この言葉は何かの災害が起こるたびに繰り返し語られるでしょう。

自分の言葉がずっと残っていくことは、思想家としては、最高に理想的なことです。

5・7・5と俳句形式になっているのも覚えやすくていいですよね。

寺田寅彦を大切にしていきたいものです。

土佐人に親しめる学問の世界を展開してくれていますので。

そういえば、牧野富太郎も極めて具体的な植物の世界を対象にしました。

日常性と具体性は土佐人に欠かせないポイントのようですね。

PS 5月23日、東京からくる長宗我部最高委員会のツアーの方々の前で講談をします。

岡豊城、歴史民俗資料館玄関前に午後1時集合になっています。

24日は、長浜の若宮八幡宮での元親初陣祭(11時より)でも講談をさせてもらいます。

どちらも内容は元親です。そのときの状況で変わりますので、詳しい時間は未定です。

興味がおありの方は、24日の方はご自由に、23日はご一報ください。

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2009年4月27日 (月)

土佐人の物語33(未来への希望)

前回、未来への希望の大切さを述べました。

今回は、土佐人にとっての未来への希望はどこにあるかを考えます。

原始的で、生命力に溢れ、猛々しくさえあることは、この混迷の時代を生き抜いていく力になるでしょう。

さらに人を受け入れもてなす、お接待の文化、おきゃくの文化があります。

これを基本にしていくといいのではないでしょうか。

資本主義においては、本当は何を基本・元手にしていくかが大事です。

マネー資本主義は崩壊しました。

土佐人は、おきゃく資本主義でいけばよいと思います。

中平さんは、以前よさこい資本主義と言っていました。

おきゃく資本主義も同じようなものです。

おきゃくを大いにやればいいのです。

誰もが単なる「お客さん」ではなく、飲んで、食べて、歌って、語り合って、芸を披露して、誰もが自分を表現できて楽しい場であることが大切です。

おきゃくは、土佐人にとって祭りなのです。

祭りとは、人が神に近づくことにより、生命力を取り戻す場なのです。

神の力を宿した供物を頂くことで、ケガレを払い生命力を回復させる場なのです。

おきゃくによって常に生命力を取り戻している土佐人には希望があります。

太古の祭りにつながるおきゃくをしている限り、土佐人は不滅です。

おきゃくは単なる飲食の場ではないのです。

また、これからは、単に憂さを晴らす場だけにしてはいけないでしょう。

大いに語り合う中から、よりよく生きていける道を見つけることが必要でしょう。

例えば、特産品の開発やそれを販売するルートの開拓などを一緒に考えたらよいでしょう。

もちろん特産品を楽しむ場であることは言うまでもありません。

色んなものをおきゃくから生み出していくことが土佐人の性に合ってます。

土佐くらい自然が豊かで様々な食材が豊富なところはありません。

それを全世界に分けてあげるといいでしょう。

食糧問題は、土佐に任せろというくらいの気持ちがあってもよいではないですか。

勿論、生垣まで食べれるようにする山形県民の知恵も大事ですが。

さらに森林資源をエネルギーに変えていけるなら、エネルギー問題も解決します。

世界が直面している食糧問題とエネルギー問題を土佐から解決していけるかもしれません。

こういう太い話が好きで、大いにできるところも、土佐人の良さであり、未来への希望なのです。

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2009年4月13日 (月)

土佐人の物語32(或いは教育論)

大正12年、新潟出身の一人の男が、土佐の青年の魂に火を点けました。

旧制高知高等学校初代校長、江部淳夫です。

4月の入学式の式辞で、「感激あれ、若人。感激なき生活は空虚なり」と訴えたのです。

この言葉は、「感激なき人生は空虚なり」と言い換えられて語り継がれています。

土佐人には、魂が震えるような感激が必要なことを、江部は見抜いていたのでしょう。

この年の12月3日に江部が喉頭結核で死去することで、この言葉は伝説化し、今も土佐人の魂を鼓舞し続けています。

土佐人にとっての教育を考えてみます。

土佐人は決して能力が劣っているのではありません。

言語能力には秀でています。

多くの小説家を輩出していることからもわかります。

しかし高度な抽象化能力には欠けています。

身近な生活と結びついていたらいいのですが、やや抽象的なことにはついていけなくなります。

学習内容が抽象的になってくれば、それを生活実感に結びつける作業と根気よく抽象化能力を育てる訓練が必要です。

しかし、土佐人は飽きっぽいので、それが中々できません。

そのための学習意欲をかきたて、動機付けをするには、魂に火を点けることが必要です。

学習に意味を与えること、大義を持たせることです。

それは、単に学力テストで最下位を脱するなどということでは駄目です。

明治期に、多くの土佐人が懸命に学んだのは、学習したことが国づくり・よりよい社会の創造につながっていたからです。

同じように、学ぶことがよりよい社会の創造につながるという道筋を示せれば、或いは学習者にそう信じさせることができれば、目の色を変えて学び始めるでしょう。

社会・生活実感から離れた動機づけでは駄目なのです。

社会の役に立てるという実感が必要なのです。

教育者にとっては、学習内容と社会の諸問題を結んでいく視点が求められます。

そして、学習者自身も主体的に社会の諸問題に対峙し切り結んでいく姿勢が大切です。

学ぶことは素晴らしいことです。

「知は力なり」です。

そして、江戸時代の南学が幕末維新における土佐人の活躍を用意したように、学びは未来を拓いていくのです。

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2009年3月23日 (月)

土佐人の物語31(明治篇8)

今回は、あまり知られていない2人の人物を取り上げます。

まず大石弥太郎(1829-1916)、円(まどか)という名でも知られています。

土佐勤王党の盟文を作った人です。

その後、板垣退助の下で、高知のために尽力し、木工奉行や軍事局監事兼監察などを歴任しています。

いわば体制側にいて、出世もした人ですが、富永有隣を匿った事で捕らえられています。

富永有隣とは、長州の吉田松陰の松下村塾で教授をして、幕長戦争時には、鋭武隊を率いて戦った人物です。

当時は、お尋ね者でした。

政府支配下の高知県の官吏であれば、当然すぐに官憲に突き出さなくてはならないところですが、そうしないのが土佐であり土佐人です。

次は、高橋簡吉(1853-1922)です。

父とともに戸長の不正を糾明しようとして、戸長に怪我を負わせて、入獄しています。

自由民権運動に関わり、友人と夜学会を催し、山嶽社を設立させています。

土佐に落ちのびてきた落合寅市(秩父事件の大隊長)を長期間匿いました。

その後、キリスト教の洗礼を受け、土佐山村(現在高知市と合併)の初代村長となっています。

その後、県会議員となり、県の吏員となり、後年には移民団長となって、宮崎県に移住し、山林事業に従事しました。

高橋も、いわば体制側にいた人間です。

それでも政府から追われている者を匿っています。

秩父事件も、自由民権運動の中で展開されたものなので、親近感もあったのでしょうが、中々できることではありません。

土佐人は総じて負けた者に優しいところがあります。

というより勝って奢ることへの嫌悪があると言うべきでしょうか。

勝ち負けは時の運であり、買った側が常に正しいわけではないことを、長い歴史の中から経験し、身についているからでしょう。

そういう意味では、常に国家体制の枠に収まりきっていず、独立した風土を持っているということにもなります。

時の権力には最終的には従うとしても、様々なレベルで抵抗します。

基本には、権力への反発があり、別の権力を求めています。

やはり、土佐人は潜在的な革命家なのでしょう。

各自が独自の価値観を持っています。

納得しなければ、法律にも従おうとしません。

義と情には厚いところがあります。

近代社会には生きていけない人種なのです。

しかし、近代の終わりとともに場が与えられるかもしれません。

近代をはっきり終わらせ、次の時代を模索しなくてはなりません。

廃県置藩は一つのよいアイデアだと思います。

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2009年3月16日 (月)

土佐人の物語30(明治篇7)

今回は、後藤象二郎(1838-1897)です。

後藤はどう評価してよいかわからない人物です。

吉田東洋の甥なので、藩の大監察として、東洋暗殺の首謀者武市瑞山を裁くあたりから知られてきます。

長崎では土佐勤王党員でもあった龍馬と協力関係を結びます。

龍馬の案である大政奉還を建白したのも後藤でした。

後藤が大きな働きをしたことは間違いありません。

大阪府知事、左院議長、明治政府の参議をして、征韓論で板垣とともに下野します。

その後、板垣の愛国公党にも参加しますが、事業にも手を出します。

結局失敗しますが。

自由党議員として、板垣とともにヨーロッパ漫遊の旅に出ました。

日本人で最初に、ルイ・ヴィトンの客になったのは後藤です。

新しもの好きの土佐人の面が出ています。

この旅行の費用の出所をめぐって、党内は紛糾し、ついに解党となります。

後藤は、自由民権勢力の結集を目指し、大同団結運動の先頭に立ちますが、黒田清隆より、逓信大臣の椅子を提示されると、飛びついて就任します。

自由民権の仲間をいわば裏切ったわけです。

一体後藤は何をするつもりだったのか、何を目指していたのかよくわかりません。

思想というほどのものがあったとも思われません。

しかしある意味、後藤は極めて土佐人的です。

自意識過剰で自負心はありすぎるほどあるが、組織的活動もできず、長期的展望も描けないのです。

権力には反発しますが結局なびいてしまうし、権威には弱いのです。

金銭管理には鈍感で、どんぶり勘定なのです。(土佐人の商売下手は他にも理由がありますが)

後藤の人生は空回りが多かったのですが、多くの土佐人も素晴らしい力を持ちながら、空回りしています。

お互いの力を活かしあえる社会になるとよいのですが。

この点は、また考えたいと思います。

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2009年3月 9日 (月)

土佐人の物語29(明治篇6)

楠瀬喜多(1836-1920)は、戸主であり、納税しているのに選挙できないのはおかしいと参政権を要求しました。

筋の通らぬことは承服できないのが土佐人の常です。

さらに喜多は鎖鎌の名手であり、からかってきた若衆相手に、鏡川の川原で大立回りを演じています。

猛々しいのも土佐人の常と言えるでしょう。

坂崎紫蘭(1853-1913)は、自由民権運動家でした。

各地で演説をしましたが、明治14年政談演説禁止令が出されます。

その時、芸人の資格を取り、東洋一民権講釈一座を結成して、自らは馬鹿林鈍翁と名乗り、講談をして、民権思想を広めようとしました。

ちょっと人を食った、予想もつかない行動をするところも土佐人ならではです。

坂崎は、龍馬を主人公にした「汗血千里駒」という小説も書いています。

龍馬ブームをはるかに先取りしています。

この小説は、民権思想を浸透させる目的で書いており、龍馬が自由民権の先達者として位置づけられるのにも、一役かっています。

牧野富太郎(1862-1957)は、長命で戦後まで活躍しましたが、一時期自由民権運動にも関わっていました。

牧野にすれば、地元の青年団活動のような感じで、それほど自由民権に入れあげているわけではなかったでしょうが、佐川の自由民権結社の副社長を勤めたりしています。

牧野は、植物研究という自分の道に没頭します。

東大の植物学研究室の資料を利用することを許され、研究を続け、植物分類の研究書を出版します。

しかし、これは教授たちを出し抜く形になり、研究室への出入りを止められたりしています。

ほんの少し、教授に根回ししたり、気遣いをすれば、問題にはならなかったでしょう。

そういうのができないところが、土佐人です。

職人的に自分の世界を深め磨いていきますが、社会的な関係はてんで駄目なのです。

牧野が生涯一講師を貫いたのもそういうところでしょう。

組織内では中々力を発揮できないのです。

土佐人は、滅多に起きない「眠れる獅子」なのでしょうか。

官僚的発想ではそうかもしれません。

あまり大きな組織化を目指さず、ゲリラ型の活動を促進すればいいように思えます。

大きな組織では、個人の力も魅力も生きてこないですから。

各自が素晴らしいものを持っています。

それをどう発揮させていくのかが一番大切なところです。

身近で楽しめる発想が何より大事です。

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2009年3月 2日 (月)

土佐人の物語28(明治篇5)

今回は、幸徳秋水(1871-1911)です。

社会主義者、無政府主義者であり、大逆事件の首謀者と目されていました。

大逆事件は、冤罪です。

以前にも触れましたが、秋水は天皇制を容認していました。

社会主義と天皇制は共存しうると述べていたのですから、天皇を暗殺する必要はありません。

無政府主義も西欧のものと同じように捉えてはいけないでしょう。

秋水の無政府主義は、平民自治の社会を目指すためのものです。

師の中江兆民が中央集権政府を否定したのを徹底させ、秋水は無政府論を展開しました。

平民が平和に生きられるための無政府主義、むしろ天皇がいるから中央政府などいらないという考えなのです。

それは、象徴天皇・地域主権・連合国家論なのです。

今まさに目指すべき方向をしめしているのです。

秋水は、一時期自由民権運動に関わり、自由党の動きに失望し、社会主義の思想家となります。

歴史の本質を鋭く見抜き、論を展開しています。

今でも学ぶ価値は大いにあります。

「労働階級の欲するところは、法律ではなく衣食である。議会の勢力よりも寧ろ全力を労働者の団結訓練に注がなくてはならぬ。」

「而して労働者諸君もまた紳士閥の議員政治家なぞに依頼することなくして、自身の直接行動でその目的を貫くの覚悟がなければならぬ。」

「労働者が自覚して団結すれば、この団結に敵する力は世界に無い。議会は解散し、買収することができる。然し労働者の直接行動はそうではない。」

「今日の革命は労働者の革命である。労働者は議会に上るの必要は無い。議会は取れなくてもいい。土地を取ればいい。金を取ればいい。取るべき権利ありと信ずる所のものさえ取ればいい。」

秋水には、兆民と同じように議会・自由党への不信がありました。

「充分に労働者の自覚が出来た場合に、代議士の存在は却って革命の気焔を弱める。」

こうまで言っています。

秋水は、社会党大会などで、直接行動(ゼネスト)を主張します。

しかし、当時労働者の自覚も出来ていず、抽象論とされたのでした。

行動を愛し、抽象論を嫌い、行動を主張しているのに、現状からかけ離れているため、抽象論として退けられる悲劇がここにもあったのです。

行動を論じているのに、現状から離れすぎていて抽象論として捉えられ評価されない、そういうことがよくあります。

そこに土佐人の悲劇があります。

土佐人はある意味全て革命家なのでしょう。

平時より動乱の時にこそ力を発揮します。

それは今なのです。

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2009年2月17日 (火)

土佐人の物語27(明治篇4)

今回は、中江兆民(1847-1901)を取り上げます。

中江兆民は、フランス留学で自由・民権思想に感化を受け、日本にルソーを紹介したことで知られています。

彼の思想で忘れてはならないものに、「君民共治」論があります。

君主と民衆が共に国を治めていこうという思想です。

これは、龍馬の「一君万民」論を発展させたものと言えます。

実際の根拠は、ルソーの「社会契約論」の第2篇第6章注にある「人民主権の原則が尊重されるならば、君主国もまた共和国と言える」という文章に求められています。

もちろん共和制を目指すのですが、悪い共和制よりは、人民主権の原則を持つ君主国がよいということで、君民共治論に行き着いたということになっています。

実際に目指していたのは、象徴天皇制・立憲君主制なのです。

兆民は天皇制を敵視してはいませんでした。むしろ認めていました。

天皇制を否定しては受け入れられないという現実認識があったからでしょう。

それは、実際的を重んじる土佐の精神のなせるわざであったでしょう。

兆民が問題視し敵視していたのは、有司専制です。

これは、官僚専制とも薩長藩閥とも中央集権政府とも解釈できます。

象徴天皇の下に、各地が自立的に生活するのは、龍馬の日本連合国論を思わせます。

正に兆民こそは龍馬の思想を継承した者なのです。

その後、兆民は国会議員になりますが、自由党土佐派の動きを不満として、議員を辞職します。

この時の理由が、「アルコール中毒病になり、歩くことが困難・・・」というものであったことは有名です。

ここにも土佐人らしさが出ています。

無難にせず、何か一言毒のあることを言って、世間を騒がせたいのです。

一言主神からの伝統かもしれません。

世間を騒がせるようなことを言いたい言わざるをえないというやむにやまれぬ想いに突き動かされているのです。

端的には、自意識過剰と言えるでしょうが、単なる自我肥大ではなく、「公」に結びついています。

土佐人は、自負心が強く、自意識過剰でありますが、それは自我肥大ではなく、自我崩壊のせいなのかもしれません。

兆民は他に、国会のことを「無血虫の陳列場」と呼んだりしています。

土佐人の魂がそこに踊っているように思えます。

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2009年2月 5日 (木)

土佐人の物語26(明治篇3)

今回は、坂本直寛(1853-1911)を取り上げます。

母は龍馬の姉千鶴なので、龍馬の甥になります。

龍馬の実家を継いでいるので、坂本姓です。

龍馬との関係が強調されがちですが、父のことも忘れてはなりません。

父は高松順蔵、有名な儒者であり、東部地域での子弟教育の中心人物でした。

儒学(主に朱子学)は絶対的なもの、信ずるに足るもの、主君を求めます。

直寛が最初に関わったのは、自由民権運動でした。

当時の社会状況からすれば、当然の成り行きでしょう。

この頃は、坂本南海男と名乗っています。

自由民権運動の理論家として頭角を現します。

植木枝盛と並び称されてよい活動をしているので、もっと評価(再評価)すべきでしょう。

自由民権運動の仲間たちが次々と伊藤博文に取り込まれてしまうことに絶望し、そこから離れます。

次に関わったのは、北海道開拓事業でした。

北光社を組織し、人を集め、開拓事業を実現させていきます。

「北光」の名称には、北の地に希望を見出している直寛の気持ちが込められているようです。

あるいはそれは、求めてやまない絶対的なもの(神)かもしれません。

この頃は既にキリスト教に入信していましたから。

開拓事業は苦難の連続でした。

直寛はよく働き、人々の先頭に立って色々な世話もしていたのですが、洪水復旧のため政府と交渉して支出させた支援金のことで仲間から疑われ、人間関係がうまくいかなくなり、そこから離れます。

直寛の人生は裏切られ続けた人生であったとも言えるでしょう。

その後労働運動にも関わったりしましたが、最後にたどりついたのはキリスト教でした。

伝道師の資格を取って、本格的に活動するようになりました。

監獄の囚人への伝道や、キリスト教系の新聞への論説文発表などで活躍しました。

信ずるものを求め続けてキリスト教に安住の地を見つけた直寛の生涯は、裏切られること、挫折が多かったとしても幸せだったと言えます。

多くの土佐人はこうはいきません。

抽象的・形而上的なものより、具体的・実際的なものを求めるからです。

あまり超越的ではなく具体的で、しかも神聖感があって、信ずるに足る絶対的なものを探してみると、卑弥呼が一番近い感じがします。

本来土佐人は、卑弥呼の民であり、今も卑弥呼を求め続けているのかもしれません。

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2009年1月26日 (月)

土佐人の物語25(明治篇2)

明治期の土佐人について続けます。

谷干城(1837-1911)、陸軍軍人、政治家。

1867年5月21日の龍馬・慎太郎と西郷らの討幕の密約に板垣と共に参加。

龍馬暗殺後最初に駆けつける。

戊辰戦争時は藩兵大軍監として板垣を補佐する。

維新後高知藩政において板垣の積極財政と対立して辞職し、陸軍に入る。

西南戦争時の熊本鎮台司令官として、西郷軍をよく防ぐ。

薩長藩閥からなる政府や軍部を批判し続ける。

欧化政策を批判する。

後に立憲政治に目覚め、国民主義を主張する。

日清戦争までは、軍拡を主張し、それ以後は対外慎重策を主張する。

対露戦に傾く風潮の中、対露協調を説く。

貴族院の代表的論客として活動する。

谷干城の人生は以上のようなところです。

干城は、土佐に南学を復興させ、土佐の下層青年たちに尊皇の火をつけた谷秦山の子孫です。

龍馬からも影響を受け、天皇中心の理想的な国づくりを夢見たことでしょう。

熊本鎮台の司令官になったのは、薩摩の軍人を赴任させたのでは、西郷軍に取り込まれてしまう恐れがあったからです。(山県有朋の人事でした)

実際、政府軍内部にも西郷の挙兵に共感する人々がいました。

明治政府はこのとき非常な危機にありました。

干城は、正に明治政府を守った男なのです。

しかし、干城の心は晴れなかったでしょう。

自分が守り期待した政府は、薩長藩閥により牛耳られ、欧化政策を押し進めていたのですから。

元々保守思想を持っているのですが、板垣とは別に憲法の必要性に目覚めます。

干城にとって、天皇を奉じて政治を行うのが理想なのですが、薩長に独占されている状況では、国民の基盤となり、薩長を牽制するものがどうしても必要です。

それを憲法に求めたのでした。

徒に軍拡を求める軍人ではありませんでした。

それは、軍拡や日露戦争が喧伝され、勇ましい論調の支配する風潮の中で対外慎重・対露協調策を論じたことからもわかります。

バランスが取れていて、確かな世界観を持っている人であったと考えられます。

干城の目指していたものは、一君万民平等の社会であり、経世済民の政策を施したかったでしょう。

残念ながら、干城の主張は政府からも自由民権運動からも離れていて、時代の主流にはなりえませんでした。

一言居士や頑固親爺、天の邪鬼の様相を示し、扱いにくかったことでしょう。

しかし、干城はずっと不遇であり、不満であったと思われます。

そこに土佐人の一つの典型を見ることが出来ます。

溢れるほどの想いがありながら、理解されず、取り残され、ある面うまく利用されてしまうという点です。

干城の主張をどれほど明治政府が受け入れたか定かではありません。

明治政府を守った男なのに、可哀想なほどです。

干城はもっと正当に評価され、重視されてもよかったと思います。

土佐人も半ば忘れています。

窪川町(現四万十町)で干城を主役にしたミュージカルなどが住民によって上演されたりはしているようですが。

もっと、干城の思想を大切にしてあげることが必要なのです。

我々土佐人に投げかけられた課題です。  

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2009年1月19日 (月)

土佐人の物語24(明治篇)

明治期の土佐人に触れながら、色々考えてみます。

板垣退助(1837-1919)、自由民権運動の指導者。

その先祖は、武田信玄の重臣板垣信方です。

直接の子孫ではないようですが、世に隠れもなき武将の家系に生まれたことは退助に大きな影響を与えているでしょう。

小さい頃から、手のつけられない暴れん坊でありました。

一軍を率いて戦に向かうことに適していた天性の武人であったのです。

1867年5月21日に、中岡慎太郎の仲介で、龍馬とともに西郷らと会い、討幕の密約を交わします。

戊辰戦争においては、官軍の将となり、会津若松城を攻撃しました。

高知藩の役職に就いた後、中央政府の参議に就任。

征韓論で下野した後、自由民権運動を拡げ、自由党総理となる。

岐阜での遭難の時「板垣死すとも自由は死せず」との名言を残したことは有名。(実際は別の言葉であったらしい)。

後年、政敵伊藤博文内閣の内務大臣や、大隈重信内閣の内務大臣に就任。

晩年は、政界から退き、社会改良運動に尽力する。

生涯を概観するとこんなところでしょうか。

武人であった板垣が、言論の闘士となったところは歴史の皮肉なのか必然なのかわかりません。

土佐には討論の伝統があり、言語能力は概して高いと言えます。

必然と言ってもいいのかもしれません。

大阪に設けた自由民権運動の拠点は、「愛国社」という名前でした。

ここにも自由民権運動が、愛国心の発露であり、よりよい国づくりを目指すものであることがわかります。

大臣に就任したのは、色々ないきさつや力関係があったようですが、維新の第二幕を目指していたものではないかと思われます。

国のあり方を変えようと意気込んでいたわけです。

自負心が強く、(自意識過剰とも言えますが)、一人で何でもできると考えがちなのは、土佐人の魅力であり欠点です。

そして、根回しや説得が下手で、結局大して影響力を発揮しえないのです。

我々がよく経験してきたことではありませんか。

少しずつ土佐人像が明確になってくれば幸いです。

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2009年1月15日 (木)

土佐人の物語23(自由民権運動)

明治になって、土佐から全国に自由民権運動が広がりました。

自由民権運動とは、憲法制定、国会開設、言論・集会の自由、租税の軽減、地方自治の確立、不平等条約の改正を主張する運動です。

後に、板垣退助らが、自由党を組織し、中央政府を批判したので、反国家運動のように見られる場合もありますが、よりよい国家の創造を目指したのです。

坂本龍馬の「一君万民(平等)」思想と反中央集権思想が基本になっていて、それにヨーロッパの自由思想が加味されたものが基盤となりました。

天皇中心の理想的な国家づくりは、薩長独占体制となってしまいました。

政府を規定する法律が必要と考えられました。

だから、憲法制定が主張され、政府を牽制するために国会開設が求められたのです。

言論・集会の自由を求めることは、いかにも土佐人らしい要求ですが、大衆運動を起こして政府を揺さぶるための方法、権力闘争の側面があります。

租税の軽減は、政府の収入を減らし、小さな政府にとどめ、地方自治を確立することで、独立した地域国家の連合体を目指したものです。

その一環で土佐独立論も出てきました。

不平等条約改正は、まさに愛国心の発露であり、自由民権運動がよりよい国づくりを目指していたことの証明となるでしょう。

自由民権運動は、土佐の南学の伝統に洋学を加味した明治の経世済民の思想の発露であり、愛国運動なのです。

特に土佐派は尊皇心が厚かったので、後の第1回帝国議会において「土佐派の裏切り」によって政府と妥協してしまうことになります。

帝国議会を混乱させることは、元首である天皇の名誉を汚すことになるので、それを避けたものと考えられます。

「東洋大日本国国憲案」を作り、抵抗権や革命権を導入した植木枝盛にしても「愛国」と書した額を飾っていたそうです。

社会主義者と目される幸徳秋水も社会主義と天皇は共存できると主張しています。

自由民権運動には、様々な側面、様々な思想の萌芽が見られますが、端的に言えば、天皇中心の理想的な国づくりを目指して大衆を巻き込んだ権力闘争であり、愛国運動であったと言えるようです。

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2008年12月17日 (水)

土佐人の物語22(龍馬篇)

今回は、龍馬に南学の影響があることを述べてみます。

南学とは、既に述べてきたように、土佐に土着した朱子学です。

朱子学は強い国家を造るための官僚の学でしたが、谷秦山が神道をとりいれ、尊皇を強調することで、天皇の国家をつくり運営する学問となり、それを土佐の青年たちに吹き込むことで、下級武士や町民を含めて国家造りへの想い、維新へのエネルギーを貯めこんでいきました。

天皇中心の国家を目指して、具体的・実際的な行動・成果を求め、経世済民を成し遂げようという思いは、龍馬に流れ込みます。

龍馬には、尊皇思想があります。

それは、抽象的観念ではなく具体的な国家像です。

よく話題になる「日本を今一度せんたくいたし申候」のせんたくとは天皇中心でない日本は汚れているので、みそぎをしなくてはならないということです。

今一度(もう一度)とは、それまでの歴史の中で、天皇中心の国づくりをしようとしたことが何回かあったのですが、いずれもうまくいきませんでした。それを踏まえています。

大政奉還はせんたくの頂点であったでしょう。その時の龍馬の感動はよく伝えられています。

天皇の下では平等であり、ともに新国家建設に協力すべきであるという考えでした。

そのモデルとして計画したのが、蝦夷地開発です。

天皇の皇子をいただき、争い合っていた浪士たちが協力して、国づくりを行い、同時に北辺防備の役割を果たす。

それは、救国・経世済民の策でした。

新政府の役職に就かず「世界の海援隊」と言ったのは、浮利・出世を求めず経世済民に邁進する南学精神からでした。

龍馬の思想は、尊皇と万民平等が合体した一君万民思想と言えます。

非常に独創的なものでした。

さらに現実的でもありました。

強い国家づくりにしても中央集権政府を目指すのではなく、諸藩が連合する連合国家を構想していました。

それが実現していたら、日本は合州国(United States of Japan)となっていたでしょう。

今からでも目指していく課題であると言えます。

もちろん龍馬は南学の影響だけで成り立っているのではありません。

よく言われる商人としての才覚・意識もあったでしょう。

2010年のNHK大河「龍馬伝」ではこのあたりをどう描くか注目されます。

さらに「老子」を読んでいます。

最後期の手紙に記された「自然堂」の署名は「老子」の「無為自然」から来ているでしょう。

小ざかしい人為をさけ、自ずから然らしむる道を求める「老子」は大きな影響を与えました。

龍馬の持つ大きさ・他と争わない志向は「老子」から来ているようです。

龍馬は土佐人のよさを発揮した思想家・行動家と言えるのです。

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2008年12月 8日 (月)

土佐人の物語21

龍馬の話の前に、土佐藩歴代藩主を通して、土佐の江戸時代をまとめておきます。

山内は省略し、括弧の中は、在位期間です。南学関係にも注目します。

初代一豊(1601-05)、土佐に入国する。

2代忠義(05-56)、野中兼山を重用する。山崎闇斎を追放する。

3代忠豊(56-69)、兼山を失脚させる。南学を弾圧する。

4代豊昌(とよまさ、69-1700)、TV「水戸黄門」に土佐藩主として登場する。

5代豊房(00-06)、谷秦山を起用し、仁政思想を基本とした文治政治を行う。

6代豊隆(06-20)、秦山を処罰する。

7代豊常(20-25)、10歳で襲封、15歳で死去。南学者山内規重が補佐する。

8代豊敷(とよのぶ、25-67)、山内規重の子、藩校教授館を設立し、秦山の子垣守や宮地静軒などを起用。一方で商人資本と結びつき土佐の田沼時代を現出させる。

9代豊雍(とよちか、67-89)、儒学を好む。教授館グループを重用し、天明の改革を行う。名君として伝えられる。

10代豊策(とよかず、89-1808)、山崎闇斎学派の馬詰親音を重用する。

11代豊興(とよおき、08-09)、在位1年あまりで死去。

12代豊資(とよすけ、09-43)、華美を好み、土佐における化政時代を現出させる。退位後も隠居として政治に干渉、明治5年まで生きる。

13代豊熙(とよてる、43-48)、遊惰安逸を退け、天保の改革を目指し、馬渕嘉平を起用し、改革に当たらせる。豊資の反対にあい潰える。(おこぜ組の獄)

14代豊惇(とよあつ、48)、即位後急死、実質在位13日。

15代豊信(とよしげ、48-59)、容堂として名高い。謹慎によって譲位するも権力を握る。大政奉還を承認する。

16代豊範(とよのり、59-71)、土佐藩最後にして、幕末の激動期の藩主。この時期は、容堂と豊資がいて、2重3重の権力構造であった。

8代豊敷の設立した教授館では、南学者が重用されていたのですが、次第に江戸風の朱子学になってしまい、勢いをなくしてしまいます。

南学は、庶民の中に浸透し、土佐人の思想基盤となりました。

ある意味では、徳川幕府を成立させたのも、終わらせたのも、山内氏だと言えるでしょう。戦国、幕末に大きな存在であったことは間違いありません。

しかし、山内氏に支配されて土佐人は幸せであったでしょうか。

山内氏を恨む必要はないですが、浦戸の虐殺や本山一揆のことなどもまた忘れてはならないでしょう。

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2008年12月 1日 (月)

土佐人の物語20

南学についてまとめてみます。

まず、朱子学を基本として発展したものであるということ。

土佐人に合うように変化していますが、出発点は朱子学であり、朱子学の性格を残しています。

次に、具体的・実践的であること。

他では殆ど使わない「小学」をテキストとして重んじ、朱子学を生活の中に取り入れようとしました。(野中兼山の意向でした)

具体的な形(葬儀のやり方など)を通して、秩序を形成しようとしたのです。

そして、経世済民を重んじました。

さらに学習方法も独自なものでした。

師匠が一方的に講義をするのではなく、弟子たちの自主的な学習と討論を重んじたのです。

弟子たちは、テキストを与えられ、それを各自が読み込み、交代で解釈し発表し、論議していく、師匠は間違っている所を直していくというやり方です。

兼山の補佐をし、共に南学を創始した小倉三省が編み出しました。

具体的なことを好むのは土佐人の性癖と言えるでしょう。

また、論議によって土佐人の魂はかきたてられたでしょう。

他の学派からは学問的に深まっていないという批判が寄せられていますが、もとより南学では、いかに学び実践するかが大事なのです。

「何々は何々である」式の学問ではなく、「何々すべし」という当為の学問なのです。

どうすべきかというと、野中兼山にとっては、土佐藩を強い藩にすべく開墾したり、土木工事をすることでした。

兼山が失脚した後は、多くの南学者が江戸や京都などへ出たので、思想的にも多くの影響を与えました。

一時、兼山と共に学んだ山崎闇斎は闇斎学派(崎門派)を形成します。

土佐では、谷秦山が南学復興を志し、山崎闇斎に学んで、さらに神道も学び、尊王思想に彩られた南学を、青年たちに講じます。

それは自分たちの手で、天皇中心の国を創ろうというものでした。

不遇を託っていた郷士層はそのロマンに酔いしれました。

南学の影響により、「天保庄屋同盟」や「土佐勤王党」が結成されます。

天保庄屋同盟は、庄屋の職は天皇から任命されたもので、将軍や大名の圧政から百姓を守ろうという革命的な同盟でした。

思想革命と言っても過言ではないでしょう。

土佐勤王党は、大和魂の奮起を促していますが、幕藩体制を否定するのではなく、藩一体になっての勤皇活動(一藩勤皇)を目指しました。

そろそろ龍馬を登場させなくてはなりませんね。

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2008年11月17日 (月)

土佐人の物語19

南学と絡ませて土佐の江戸期の歴史を論じます。

戦国土佐の領主長宗我部氏が没落した後、土佐に入国したのは山内一豊でした。

司馬遼太郎氏が書いているように、山内家は江戸時代を通じて土佐に土着せず、進駐軍として存在しました。

一領具足や長宗我部家臣を雇い入れることをせず、郷士という身分に留め置きました。

それより土佐の国は不穏分子(不満分子)を大量に抱えることになりました。

一度は元親と共に天下を夢見た者達の想いは、行き場を失いました。

野中兼山は、そんな不安定な土佐を、朱子学を庶民にまで行き渡らせることにより、体制を強化し、秩序を維持しようとしました。

また、開発・土木工事を行うことによって、力を削いでいった面もあるでしょう。

野中兼山によって盛んになった土佐の朱子学は、大高坂芝山によって南学と名づけられました。

しかし、未だ江戸や都の朱子学とそれほど変わってはいませんでした。

厚い尊皇心を持つ谷秦山が南学再興を志し、郷士や百姓・町民を教えることにより、土佐独自の朱子学(南学)が確立しました。

郷士には、抑圧を撥ね返したいという潜在的なエネルギーと政治を取り戻したいという想いがありました。

朱子学と神道学が融合することにより、天皇を中心とする国づくりへの志向がうまれ、それが郷士の想いに火をつけ、土佐全土で燃え盛るようになったのです。

その後、南学には紆余曲折がありました。

一時は藩学となったこともありますが、それほど栄えませんでした。

下層階級においては広く太く強くなり、幕末の志士のエネルギーを用意しました。

土佐人が、幕末維新に活躍できたのは南学があったからなのです。

南学では、「大義名分」を重視します。

幕末の思想基盤となりました。

さらに続きます。

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2008年11月11日 (火)

土佐人の物語18

南学について述べます。

南学は、土佐に土着した朱子学が独自に発展したもので、土佐人の思想背景・行動原理となったものです。

南学の始祖は、南村梅軒と伝えられていますが、実在が疑われています。

多くの土豪領主に朱子学が取り入れられて、段々土佐化したのが実情でしょう。

吉良氏に仕えた如淵などは実在していましたので、始祖としてもよさそうですが、七人みさき(怨霊)の一人ですので、大高坂芝山がはばかったものと思われます。

同学の雪磎寺住職天質が谷時中、小倉小助・三省父子を教えました。

小倉小助は土佐藩の役人であり、野中兼山を見出し、親族の野中家への養子入りを取り持ち、後には兼山の下で働きます。

兼山は、執政として土佐藩の統治に朱子学を活かそうとして、谷時中に講じさせ、小倉三省、山崎闇斎と学びました。

朱子学は、皇帝を補佐して、社会に秩序をあらしめる官僚のための政治学ですので、執政である野中兼山が学ぶには適していたと言えるでしょう。

兼山は、国土開発の思想基盤として、統治を倫理化するものとして朱子学を重視します。

朱子学の精神にのっとった掟を定め、朱子学を全ての基本としてやっていこうとしました。

しかし、兼山は失脚しました。

兼山と共に朱子学を学んでいた者達はちりぢりになりました。(南学四散)

山崎闇斎は、これより前に都に出て、闇斎学派を築いていました。

長宗我部家臣の子孫である谷秦山が、南学再興を志し、山崎闇斎に学び、土佐の青年達に教えたものが、土佐独自の学問となった南学です。

谷秦山は岡豊八幡宮の神職の家に生まれているので、元々神道に親しみを持ち、神道を学ぼうとしていました。

同じく神道に親しみ、垂加神道を創出した山崎闇斎は、先ず朱子学を学ぶことを勧めました。

秦山の中で二つが融合しました。

朱子学は皇帝を補佐する政治学、神道は日本古来の「かみながらの道」を修めようとするもので、天皇を敬う心を養成します。

つまり、天皇を敬い天皇を補佐して政治を行おうとする思想が誕生したのです。

しかも、秦山は、自らも一庶民を持って任じ、同じく社会の下層階級(郷士や町民など)に教えました。

土佐には、元々階級を否定する原始的アナーキズムがあります。

社会の下層部より、天皇中心の理想的な社会づくりをしようという志向が起こる基盤となったのが南学でした。

続きます。

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2008年10月 7日 (火)

土佐人の物語16

今回は、15で少し触れた南学の解説をしておきます。

南学とは、朱子学を核として、土佐に花開いた学問体系であり、土佐人の精神のバックボーンとなっているものです。

朱子学は、孔子が集大成した儒学の一分派と捉えられます。

孔子は、君臣や親子関係を規定し、社会の秩序維持をはかりました。

しかし、その根底には「仁」があり、忠孝で言えば「孝」を重視していました。

一方、朱子は漢民族の「宋」が北方の異民族に攻められ、南遷してできた「南宋」の人であり、漢民族の復興が求められていた時代の人です。

当然、その学問は愛国的で、「忠」を重んじるものとなります。

朱子学は、強い国を創り維持するための士大夫の学として誕生しました。

士大夫とは、皇帝を補佐する役人、家老や官僚をイメージするとよいでしょう。

朱子学は、仏教の禅宗派と共に、中国の代表的な学問となりました。

日本に最初に伝えたのは、真言宗泉涌寺の月輪大師だと言われています。

日本国内に浸透させたのは、名も無き禅宗僧侶たちです。

社会が混乱しているときに、秩序をもたらし安定化させる力があるので、あちこちで重んじられました。

室町時代に、夢窓疎石などの禅僧が幕府の顧問となったのは、朱子学を学んでいたからでもありました。

土佐でも、戦国時代よりあちこちの領主が禅僧を迎えたり、一族のものを出家させて朱子学を学ばせたりしていました。

もちろん領主がどれだけ熱心に学んだかはわかりません。

宗教勢力を支配していることを誇示するための飾りとして使われた面もあるでしょう。

しかし、お家の一大事の時には秩序を回復するために熱心に学ばれたものと思われます。

吉良家では熱心に学ばれました。一族の如淵が講じました。

吉良家が滅んでからは、長宗我部家に招かれて講じました。

当時の長宗我部は、四国征討を秀吉に阻まれ、秀吉配下の大名として再出発しなくてはいけない時でした。

夢が破れ、精神の支えが必要なときでした。

朱子学が、長宗我部家中を支える役割を果たしました。

次回に続きます。

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2008年9月22日 (月)

土佐人の物語15

室町時代は南北朝の騒乱で幕を開けました。

土佐でも、大高坂郷の地頭級領主大高坂松王丸などが、足利氏と同行し土佐の守護代となった細川氏と対立していました。

結局地生えの領主たちは負けてしまい、細川氏の支配が確立するのですが、負けて行き場を失った尊皇心は深く人々の心に沈殿していったことでしょう。

戦国時代には、土佐七雄が現れ、中から長宗我部氏が台頭してきます。

長宗我部元親は、織田信長に「鳥無き島のこうもり」などと言われますが、一領具足の力を使い、土佐を統一し、四国を平定します。

土佐人は負け組であったのですが、元親に夢を託し、協力したのです。

これは負け組の逆転勝利とも言えます。

しかし、結局豊臣秀吉に降伏して支配下に組み入れられます。

天下の主になる夢を一時は描いていたのが破れました。

天下への夢は、一領具足はもちろん人々の心にも沈殿したに違いありません。

尊皇心と天下への想いは、土佐人を特徴づけるものだと言えるでしょう。

元親は、土佐に押し込められた後、吉良家の如淵を招いて南学を講じさせ、家臣の秩序維持に務めたり、芸事などをしたりします。

しかし、後継ぎ問題で対応を誤り、家臣の分裂や増長を招きます。

攻めるはよくても、負けた後や守りに弱い土佐人の特徴がここにも見られます。

後を継いだ盛親は関が原において成り行きで西軍に味方し、失策もあって土佐を取り上げられ、京都で蟄居します。

大阪冬の陣・夏の陣では大阪方の武将として活躍するのですが、最後は戦死してしまいます。

盛親の生涯はロマンをかき立てますが、土佐人はまた行き場を失って、負け組に戻ってしまったのです。

このように見てくると土佐人が屈折している理由がよくわかります。

次回は、江戸時代を取り上げたいと思います。

土佐人の尊皇心は、ひょっとしたら天皇に対するものではなく、卑弥呼に対するものから来ているのかもしれません。

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2008年9月11日 (木)

土佐人の物語14

古代については、妄想も含めて随分論じました。

平安時代以降を見ていきたいと思います。

平安時代には、律令体制に組み込まれ、都から国司が派遣されています。

「土佐日記」の紀貫之も国司の一人でした。

貫之は、土佐に派遣されたことが心外だったようですが、紀家は元々武人の家柄ですので、土佐の荒ぶる魂は意外と肌に合ったかもしれません。

そして、土佐人のルサンチマン、屈折感は貫之の歌心を刺激しただろうと思います。

土佐人も貫之の影響を受けたことでしょう。

配流の地にもなりました。

多くの皇族、権力者の一門、文化人が、流されてきました。

皇族の存在は、尊皇心を植えつけたでしょう。

政争に敗れた権力者の一門を受け入れることで、反骨心、中央への敵愾心・対抗心が養われたでしょう。

文化人は、高い文化や自尊心をもたらしたことでしょう。

鎌倉時代は、源平の争乱で幕を開けました。

源頼朝の同母弟である源希義は土佐に流されていたのですが、兄頼朝の挙兵に呼応して、挙兵し合流しようとしますが、平家方に追捕され敗死します。

一度敗れて再起をはかるもまた敗れて死んだ希義を間近に見た土佐人はどう感じたでしょう。

無常やあきらめを感じたのではなかったでしょうか。

安徳帝が生きのびて、土佐にやってきたという伝説があります。

実際、土佐は隠れ住むにはかっこうの山深い地です。

尊皇心のあらわれで伝説が生まれたのでしょうか。

或いはかつての邪馬台国である土佐になら安住の地を見つけられると思って来た真実を語っているのでしょうか。

本当のところはわかりません。

しかし、土佐に限らず四国の山中には数多くの平家落人伝説があります。

源氏(中央政権)に恨みを持ち、いつかは転覆をはかろうという意志を持った平家の武士や郎党があちこちに住み着いたことは間違いありません。

いつかは決起して中央政権を倒してやろうという想いは土佐人の魂に刻まれることになったのです。

土佐の山間部では、競馬の伝統がありました。

それらは決起を目指す武将が集まり気勢を上げる馬揃えに端を発しているのかもしれません。

土佐人は古くから潜在的な革命家であったのです。

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2008年8月26日 (火)

土佐人の物語13

土佐は最初に国を奪われた地であり、土佐人は最初の負け組だと述べました。

そう考えると土佐人の情緒不安定さもよく分かります。

土佐人には癒しが必要です。

初めから自信喪失しているので、何かで自信を回復することが必要なのです。

今のグローバル競争で自信は回復できるでしょうか。

無理です。もう勝負はついています。

多くの地域が負けて奪われ続けています。

こういう流れは何とか止めていかねばなりません。

金を中心に考えていると、いつの間にか吸い上げられてしまいます。

「命」を中心に考えて、少数が富を独占するのではなく、共有し、助け合って生きていく社会を築いていくことが何より大切なのです。

共助・共生の経済社会の確立です。

それには、食糧もエネルギーもできるだけ自給自足をすることです。

地場産品を使い、地域の憩いの場となる食堂がもっとできるとよいでしょう。

社会体制が崩壊の危機に瀕している今こそ、根源的に助け合える思想と関係が必要です。

生きていくには、近くの人と助け合うことです。

与えられた価値観に縛られることはありません。

官庁が後生大事に持っている文書管理統制・先例主義・官僚優先によって私たちは幸せになったでしょうか。

西欧からもたらされた個人主義・市場経済・グローバル競争によってどうなったでしょうか。

自信回復のためには、まず自分をありのままに認めなくてはなりません。

自分たちがありのままに持っているものの価値(値打ち)に気がつき大切にするところから全ては始まります。

きっとそこに市場主義を越えて生きる道が見つかるのです。

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2008年8月 7日 (木)

長宗我部ブームを期待する

高知新聞(8月4日)の報道によると、長宗我部氏が全国の若者に大人気だということです。

ネット上で「長宗我部最高委員会」が立ち上げられたり、「何から何まで長宗我部百パーセントBAR」というイベントが開催されて、熱く語り合ったりしているとのこと。

イベント主催者は、長宗我部をNHK大河ドラマにすることを目標としているとのこと。

私も同じことを以前より考えていたので、この盛り上がりは非常に嬉しいし、協力していきたいと思っています。

元親をはじめとして長宗我部の人々は皆魅力的でドラマチックです。

中央との関わりも多いので決して一地方のドラマにはなりません。

元親は、「姫若子」と言われたほどですから、イケメンで中性的、さらに武勇も教養も併せ持っていました。

四国平定を織田信長に反対され、決戦を覚悟するも本能寺の変に救われます。

その後、反秀吉の立場を取り、柴田勝家、織田信雄、徳川家康、雑賀衆と連携します。

秀吉に降伏し、築いてきたものを一気に失うのもドラマチックです。

継嗣問題で躓き、吉良親実他を死に追いやってしまったことも、不遇の中での滅びへの道を暗示しているようです。

夢破れ、滅びに直面しながらも、生きる道を模索した元親は、現代人に様々なメッセージを残してくれているようです。

元親夫人は、明智光秀の家臣斉藤利三の妹だとも言われています。利三の娘おふくは後の春日局です。おふくは少女時代の一時期岡豊城で過ごしたとも言われています。

長男信親は、6尺豊かな大男ですが、色白・柔和・礼儀正しく、知勇兼備の武将であり、烏帽子親は織田信長です。信の字は信長よりもらっています。将来を嘱望されていたのに、戸次川の戦いで戦死するのは悲劇です。

次男親和、三男親忠にも様々なドラマがあります。

四男盛親についても、司馬遼太郎の「戦雲の夢」を読めば分かる通りです。

さらに家臣が魅力的で多士済々です。

豪傑吉田重俊、ユーモアのある中島可之助、知将谷忠澄、悪役では久武氏もいます。

中島と織田信長の会見、谷と豊臣秀吉の会見は見事に一幅の絵になるほどです。

長宗我部氏は、秦の始皇帝の末裔ということであり、聖徳太子を補佐した秦河勝の子孫ということになっています。ここにもロマンがあります。

司馬さんの「夏草の賦」「戦雲の夢」を原作にして、大河ドラマになってほしいものです。

「功名が辻」より面白くなることは間違いありません。

岡豊城も国の史跡になったことですし、長宗我部ブームが到来してもよい頃です。

元親の人生は現代人に多くの示唆と希望を与えるでしょう。

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2008年8月 5日 (火)

土佐人の物語12

先日、テレビ番組「みのもんたの歴史ミステリーSP」で「邪馬台国は四国にあった」という内容が取り上げられていました。

四国山上説の大杉博さんもVTRで出てました。

全国放送なので少しは認知されるのではと期待しています。

ただ、卑弥呼の都を鳴門にしていたことと、邪馬台国が近畿に移って大和朝廷になったかのように描いていたのは少し不満です。

都は色々移動していたでしょうし、外から来た大和朝廷によって国を奪われたと考えたほうが、その後の土佐の立場も、土佐人の性格もよく理解できるようになるからです。

土佐人には、負けたものの悲しみ・悔しさを底にあります。

不遇状態への怒りがあります。そういうものが自意識を肥大化させたり、劣等感の元となったりしました。

偏屈者や変わり者として現れてきます。

本来得意ではない「議を言う」ことも鬱懐のなせるわざです。

土佐人は悲しい存在なのです。

配流の地となり、罪人が流されてくることにより、さらに失意の念は重なります。

都への憧れ・執着心と反発心が強化されます。

都の政争に敗れて流されてきたものは同類のものであり、同情するのです。

土佐では明治になっても政府から追われている者を長期間匿っています。

中央が絶対ではないという確信があるからでしょう。

不遇の歴史や政治犯からの影響で政治意識が発達しました。

自らの世界を作りました。

土佐は長らく半ば独立国だったのかもしれません。

正確には中央政権の埒外に置かれたというべきでしょうか。

よく現世利益的で、宗教心がないと言われます。

しかし、生活に根付いた原始信仰は豊富にあります。

民間の祈祷師「太夫さん」も多いです。「家祈祷」も残っています。

謡い、踊り、語れる民です。

日本がグローバル競争の中で負けつつあり、方向性を見出せない今こそ、土佐人の持つ原始性が役に立つでしょう。

高知県独立或いは四国独立を目指してみるのもいいのではないかと思います。

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2008年7月30日 (水)

土佐人の物語11

邪馬台国四国山上説をとると色々納得できることがあります。

四国山地の山は険しいのにこれほど高地集落があり、尾根道が縦横無尽に走っていることもそうです。

邪馬台国は7万戸あったということで、人口は40万くらいだと推定できますが、四国山地全体なら十分に住める人数です。

土佐人の性格もより理解できるようになります。

土佐人は、基本的には縄文の遺民であり、独立独歩で、本能のままに自由に行動し、人生を楽しみます。

本来他者を歓迎しますが、国を奪われたのでヨソ者への警戒心があります。

歓迎と排他性があるのはそのためです。

協力しようとして騙されたので、他者との共同作業に不信を持ち、本来の独立志向とあいまっていよいよ独立性を高めています。

過去の栄光から来る自負と現在の不遇への嘆きが複雑な彩を加えます。

自我は強固となりました。

内心に怒りと悲しみを秘めていますので、時々爆発します。

昔の誇りを取り戻したいので、いきがったり、大きなことを言いますが、負けたことがトラウマとなっており、無力感・無常感のもとになっています。

司馬遼太郎さんは「土佐人には影がある」というようなことを書いていましたが、遠い昔の敗北に起因していると考えてみるとよく理解できるのではないでしょうか。

土佐は、失われた楽園、最初の負け組・賊軍、怨念の地であり、土佐人は屈折しました。

屈折した縄文人です。

土佐人は、決して単純明快な人間ではありません。

笑顔の底に深い悲しみ・心の傷を宿しているのです。

癒され自信を取り戻すことが必要なのかもしれません。

今は、日本全体がグローバルな市場競争の中で負け組になろうとしています。

心の支えは全国的に必要なもののようです。

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2008年7月22日 (火)

土佐人の物語10

邪馬台国は高知県本山町を(宗教的)都として、四国山上にあった。

それは大和朝廷により奪われた。

こう考えてみると色々な事が類推されます。

聖徳太子が道後に来たことを、青春の流浪のように言う説もありますが、本当は慰霊のためではなかったのか。

紀貫之が土佐に派遣されたのは、文化的に高いものを見せて天皇制に従うようにしむける方策だったかもしれません。

空海が四国霊場88ヶ所を定めたのは、実は結界を張るためのものであったのかもしれないのです。

この結界によって邪馬台国の神々と人々を封じ込めて、天皇家とその国を安泰ならしめることが、密かに込められているとしたら、現在まで続く壮大な呪いです。

60番札所は横峰寺です。石鎚山のふもとにあります。

60は還暦を表す特別な数字ですが、ここに邪馬台国を慰霊し封じ込める寺が置かれたのではないかと感じます。

そして四国霊場最高の地点にあるのは、66番雲辺寺です。讃岐・阿波・伊予を見張るかのように、遥かな山上にあります。

この寺を横峰寺より高く置くことによって、天皇の優位を示しているのではないかと想像は膨らみます。

讃岐には天皇関係の寺もあります。讃岐は天皇の影響力の強い地です。

今でも国家の出先機関は高松に集中しています。

空海が何故天皇からあれほど信任されたのかという裏には、邪馬台国の怨霊が蠢いている四国に結界を張って封じ込めたからという功績があったのかもしれないのです。

土佐人の中に根源的にある愛国心は本当は失われた祖国邪馬台国へのものではないでしょうか。

そして自然に存在している尊王心は、無意識的であっても卑弥呼の系統に奉げられたものではないのかと思えるのです。

幕末時、尊皇攘夷の時代、土佐に出来たのは「土佐勤王党」でした。

天皇の「皇」ではなく「王」という字を使ったところに無意識にせよ大いなる意味が隠されているのかもしれないのです。

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2008年7月14日 (月)

土佐人の物語9

今回は古事記に記されている一言主神について述べます。

雄略天皇が、ある時共の者を従えて、葛城山に登ると向こうからも同じような行列が来ます。

主人の様子も従者の装束も天皇一行と同じでした。

雄略天皇が「誰だ」と問うと向こうも「誰だ」と問い返します。

天皇は怒り、弓に矢をつがえ、従者にもそうさせると、向こうも同じようにします。

「名乗りあって矢を放とう」と天皇が言うと、向こうの主人は名乗ります。

「悪いことも一言、善いことも一言で言い分ける(判断する)葛城の一言主神である」と。

天皇は敬服し、太刀や弓矢、百官の衣服を献上します。

大神は大変喜んで、これを受け取り、天皇が帰るとき長谷の山の入り口まで見送ったということです。

当時、天皇は絶対的権力ではなく、同じくらいの武力を持つ者はいくらでもいました。

この一言主神もそれらの豪族を象徴しているでしょう。

天皇に対して不羈の精神を示しています。

しかし気がよく、贈り物によって籠絡されてしまい、見送ることで天皇の権威を認め、その支配下に入ったかのように行動してしまいます。

気のいい縄文の精神を表している神様です。

この一言主神が、土佐に流され、土佐神社の祭神となったという伝承があります。

天皇はへりくだるように見せかけてこの神を土佐へ流したのでしょうか。

何でも一言言いたがる土佐人の性格はこの神から来ているかもしれません。

四国霊場31番札所五台山竹林寺の境内には一言地蔵があります。

何か関係があるかもしれません。

歴史は様々な角度から見ることで真実の姿を顕してくれることでしょう。

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2008年7月 8日 (火)

土佐人の物語8

今回も余談です。

「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(大杉博著、たま出版)という本を読みました。

邪馬台国は四国山地の上層部にあったとする四国山上説であり、卑弥呼が居たのは阿波の神山町高根としています。

大変面白く、参考になりました。

ただ、天照大神をそのまま卑弥呼としたり、スサノオやオオクニヌシを実在の人物としていることには疑問も残ります。

物語を史実化すると無理が生じます。

物語の中に込められた真実を読み取る事こそ大切です。

邪馬台国が四国山地の山上部であるとするなら、本山町吉野にあったとしてもよいのではないでしょうか。

そこは四国山地で暮らす山の民の集まる場所であり、白髪山を祈る聖地でした。

そこの巫女が卑弥呼であり、その妹が物部川流域の小国の王に嫁ぐことにより、邪馬台国は始まりました。

その王は卑弥呼を崇める諸豪族などを束ね、国家を形成していきました。

そのようにして邪馬台国は成り立っていったのです。

政治の中心は香北町日御子、宗教の中心は、本山町吉野なのです。

その王と卑弥呼の妹の間にできたのが、壱與(いよ)であると考えられます。

壱與はその時強大となった国の庇護を受けるため都を久万高原に移すのです。

それは石鎚山信仰に重点を移すことでもありました。

邪馬台国が四国にあったのならそれでよいとも思います。

しかし、卑弥呼系と皇祖は連続しているとは考えられません。

連続しているなら、「国譲り」神話など必要ないでしょう。

ここではあくまでも土佐人を元気にする物語を綴っていきたく思います。

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2008年7月 2日 (水)

土佐人の物語7

古事記の解釈は今回で終わりにします。

スサノオ(皇祖)は地上に追放されました。

出雲の地でヤマタノオロチを退治したりするのですが、酒で眠らせて斬りつけるなど、策略的です。

後にヤマトタケルも女装したりと正々堂々とは言い難く、卑怯な面もあります。

アイヌ人は、和人が平気で嘘をつくことに驚いたそうですが、縄文精神の濃い人々も渡来人に対して同じような印象を持ったでしょう。

それでもヤマトタケルがクマソタケルから名前をもらったと述べられているのは、その正当性を示すためでしょう。

オオクニヌシノミコトはスサノオの子孫となっていますが、はっきり国津神であり、多くの豪族を象徴しているようです。

名前がたくさんあることからもそれがうかがえます。

オオクニヌシは兄弟間の争いで何度も死にますが、生き返ります。

抵抗する豪族のしぶとさを表しているかもしれません。

明らかに皇祖であるニニギノミコトがオオヤマツミノカミの娘を妻としたのは、山の民を懐柔し取り込んだことを表しているでしょう。

ニニギノミコトはオオクニヌシに国譲りを迫ります。

オオクニヌシは土着の君主、その子コトシロヌシは宗教勢力、タケミナカタは軍事勢力を表しており、三位一体の構造を成しています。

各地で国譲り(侵略)が行われたに違いありません。平和的解決ばかりでなかったことは、タケミナカタのエピソードからわかります。

ニニギノミコトの子供に海幸彦・山幸彦がいます。

山幸彦が海幸彦を玉から出した水で溺れさせるのですが、この様子は天皇即位の度に繰り返し演じられ続けたそうです。

海幸彦の子孫は薩摩隼人だとされていて、代々薩摩隼人から選ばれた人は溺れる真似を演じてきたということです。

天皇家の薩摩隼人に対する支配を明らかにしているのでしょう。

山幸彦の子供がウカヤフキアエズノミコトであり、その子供がカムヤマトイワレビコノミコト、大和朝廷の最初の天皇であり、東征をした神武天皇です。

皇祖と邪馬台国との関係を考察したいと続けてきました。土佐にはまだまだ多くの宝が眠っているでしょう。

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2008年6月25日 (水)

土佐人の物語6

日本人全体に関わる物語となっていますが、アマテラス(卑弥呼系)とスサノオ(皇祖)の話を続けます。

スサノオは追放されて、この世に降りてきます。

その際、八百万の神をリードしたのが、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)でした。

形としては、アマテラスを補佐していますが、実質的には並立、もしくは上位に立っている感じです。

この神は皇祖神と思われます。

アマテラスは皇祖の下に降ったのです。

ここで古事記の最初の構造に言及しておきます。

タカミムスヒノカミは皇祖神、カミムスヒノカミは邪馬台国の神々、そして最初に出てくるアメノミナカヌシノカミは両者を調和統合したものを象徴しています。

さらにこの三者は三位一体の構造にもなっています。

古事記では、皇祖と卑弥呼系の調和統合を理想として記しました。

しかし実際は、皇祖が邪馬台国を奪いました。

土佐人は邪馬台国の遺民であり、国を奪われた民だったのです。

反中央・反権力になるのは当然だったのです。

時代は移り、天孫ニニギノミコトはこの地に降臨してきます。

卑弥呼系を象徴するアマテラスの孫ということで正当性を強調していますが、国を奪った皇祖そのものであることは間違いありません。

このニニギノミコトはオオヤマツミノカミよりイワナガヒメとコノハナノサクヤヒメという二人の娘を贈られたのですが、イワナガヒメが余りにも醜かったので返しました。

イワナガヒメは長寿を象徴しており、このため代々の天皇は短命になったということです。

皇室が創ったと思われる古事記において、このような記述があるのは不思議・異常です。

しかし、皇室への同情を集め、批判をそらし、贖罪の念を込めていると考えるならば納得ができます。

藤原氏の陰謀だという説も成り立ちます。

様々な場面で知恵をだすオモイカネノカミは藤原氏を象徴しているそうです。

次回若干の補足をして本筋に戻します。

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2008年6月18日 (水)

土佐人の物語5

少し横道にずれてますが、日本起源の考察ですので、もう少しお付き合いください。

アマテラスもスサノオもイザナギより生まれているので、皇祖なのですが、アマテラスを皇祖、スサノオは反抗者の象徴とする説もあります。

しかし、アマテラスを女性であることから卑弥呼系、スサノオこそ皇祖としてみると、別の物語が展開します。

スサノオはイザナギのいいつけに背き、根の国のイザナミに会いに行こうとするのですが、その前に高天原のアマテラスに挨拶しに来ます。

これは皇祖が卑弥呼系女王を訪ねる物語です。

その際、アマテラスはスサノオが国を乱しにきたに違いないと思い、武装して迎えます。

卑弥呼系と皇祖の立場や関係を示唆しています。

そして、アマテラスはかなりの「はちきん」であるとも言えます。

両者は一触即発の危機を、ウケイをすることで脱します。

それは、互いの持ち物から子供(神)を作ることです。

これは勿論、婚姻関係を象徴しています。

スサノオがアマテラスの持ち物から生んだある子の名前は、「正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命」(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)と言います。

これは、「正に勝った、私が勝った、すばやく勝った」という意味を持ちます。

皇祖であるスサノオの口から出ていることに、大きな意味があります。

実際にスサノオははっきりと「私が勝った」と言明しています。

婚姻関係を通じて、皇祖は上位に立ったのです。

スサノオはその後乱暴狼藉をはたらきます。

田の畦を壊したり、溝を埋めたりします。

これは、国を滅ぼす行為に他なりません。

徳川家康が大阪城の堀を埋めたことを思い合わせても、国を奪う行為なのです。

それでも、アマテラスはスサノオをかばいます。

惚れた女の性でしょうか。

アマテラスが天岩戸に隠れるのは、代替わりを表しているでしょう。

古代や神道で隠れるとは死ぬことです。

新しい女王は主神であっても監視・管理され、他の神に相談して物事を決めなくてはならなくなります。

実際、スサノオ追放を決めたのは、神々の衆議でした。

古事記は、数々の謀略・簒奪を繰り返してきた皇祖の言い訳・贖罪の書ではないかと思えます。

それを明らかにすべくもう少し続けます。

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2008年6月10日 (火)

土佐人の物語4

今回は、邪馬台国及びその後継者(卑弥呼系)と皇室の祖先(皇祖)との関係を古事記に従って考えてみます。

古事記というと、イザナギ・イザナミ神話が思い浮かびます。

神話類型では、似たような国産み神話は中国、インドネシアなどにもあるようですが、イザナギを皇祖、イザナミを卑弥呼系と考えると別の構図が見えてきます。

イザナミは卑弥呼本人というより、卑弥呼と壱与の合体したイメージで捉えるとよいでしょう。

卑弥呼が国王に就任したときは、既に老いていました。

壱与が就任したときは、13歳でした。すぐに子供を生むのに適した年齢になります。

実際、壱与本人が皇祖と婚姻して子を生したか、同族の高貴な女性であったかは定かではありませんが、この時に両者が出会い、関係ができたのでしょう。

古事記には、イザナミから先に声をかけたので、婚姻がうまくいかず、ヒルコが生まれたので、イザナギから先に声をかけるようにしたと述べられています。

これは、卑弥呼系主導ではうまくいかないので、皇祖が主導したことを正当化する内容と考えられます。

ヒルコはヒルメノコとも言われるようですが、卑弥呼との関係を強く意識させます。

ヒルコが流されたというのは、卑弥呼系の末路をも暗示しているようです。

実際、イザナミはイザナギと共に、多くのものを生んだ後、火の神を最後に生んだ時の怪我がもとで、根の国へ行ってしまいます。

イザナギはそれを悲しみ、根の国までイザナミを救いに行きます。

イザナミは一度は一緒に帰ることを承知するのですが、見られたくない姿を見られたために怒り、イザナギを追いかけます。

イザナギは、この世と根の国の間のヨモツヒラサカに大きな石を置き、行き来ができないようにしました。

これは、皇祖が卑弥呼系とうまくいかなくなり、追放したことを暗に示しているのでしょう。

卑弥呼系を巧みに、悪者にすることで皇祖の行動を正当化しています。

皇祖は邪馬台国の簒奪者であったと言えるでしょう。

イザナギはこの後、川原で穢れを落とします。

つまりイザナミ(卑弥呼系)との関わりで生じた穢れを落とす行為をするのです。

その時、生まれたのがアマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコト、スサノオノミコトの三貴子です。

これらの神は、皇祖直系ということになりますが、卑弥呼系も関わっていると考えることもできます。

次回は、アマテラスとスサノオについて考えます。

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2008年6月 4日 (水)

土佐人の物語3

Niyodogawamori

前回は、土佐邪馬台国の物語(妄想?)を語りました。

史実かどうかは証明できませんが、皆が信じればそれなりの力を持ちます。

邪馬台国の末裔としての誇りを持つことができるし、その地域をちょっとした観光地にすることも可能です。

テレビドラマのロケ地が観光地になるのですから、物語の地はもっと深い観光地になることでしょう。

俳優竹中直人が「まぼろしの邪馬台国」という映画を撮りました。

再び邪馬台国ブームが起こるかもしれません。

香北町日ノ御子から本山町吉野までを「卑弥呼往還」とか「卑弥呼回廊」として売り出すことも考えられます。

今回は、邪馬台国と大和朝廷との関係を考えてみたいと思います。

卑弥呼は、魏に使いを送ったように、外の世界にも関心を持っていました。

しかし、九州や本州を従えるほどの武力はありませんでした。

元々各地の豪族の連合体の上に乗っかっている巫女から来ているので、強力な軍事力を持っているわけではなかったのです。

各地の豪族の精神世界・信仰・宗教行事を指導するシャーマン、統合のシンボルでありました。

現在の天皇とローマ法王を合わせた存在をイメージするとよいでしょう。

卑弥呼の死後、邪馬台国の中心は、愛媛に移って存続し、伊与を始めとする後継者が守っていきました。

天皇家の祖先が九州に着き、次第に力を拡大した頃には、既に古代からの歴史ある国として特別な存在になっていたのです。

それは、ローマにとってのエジプトやギリシアを想像すると理解できるでしょう。

卑弥呼の後継者と天皇家の祖先は出会い、古代からの権威と渡来人である天皇家の持つ軍事力・権力を併せて新しい国づくりをしようと考えます。

天皇家は沢山の軍事力を持っていたのではなく、各地の豪族を束ねて動かしていける経営力を持っていたというべきでしょう。

ただその頃邪馬台国系の力は弱まり、天皇家は日の出の勢いであったので、卑弥呼の思いや文化は十分に取り入れられずに、いつのまにか吸収されたと考えられます。

その頃か少し後に土佐も大和政権に組み込まれてしまったのです。

政治・行政的には組み込まれましたが、土佐はそれ以降も独自の精神を保ち続けて、今に至っています。

土佐人の独立不羈・独立自尊の精神は、邪馬台国に発しているのです。

こういう物語も中々面白いのではないでしょうか。続きます。

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2008年5月27日 (火)

土佐人の物語2

今回は、私自身の邪馬台国論を展開します。

以下、直感であり、何の根拠もありません。

また、県外の方やあまり地名がわからない方には退屈でしょうが、ご了承願います。

ナカちゃんの話から、香美市香北町と本山町の白髪山の麓が重要なポイントになることがわかりました。

香北町日ノ御子(ひのみこ)を中心とする物部川流域が邪馬台国であり、本山町の方は、山籠りをする聖地と考えました。

物部川沿いの神母木(いげのき)が国の入口、宮の口は卑弥呼の神殿への始まり、主な住民は北岸の本村に住んでいたのです。

卑弥呼の神殿は日ノ御子に、摂政である弟は太郎丸にいたでしょう。

五百蔵(いおろい)は邪馬台国の経済を支える倉庫群があったところでしょう。

日ノ御子から川ノ内川を遡り、大豊町に出る道があります。卑弥呼は、この道を通り、大豊町からは吉野川を遡って本山町に通ったのでしょう。

卑弥呼が、本山町で落ち着いたのは、汗見川との合流点である吉野、山籠りをしたのは、屋所(やところ)でしょう。

香北町の吉野は、山籠りを助ける人々が住んだ所かもしれません。

卑弥呼が死んで、葬られたのは大川村の大座礼山とにらんでいます。

死後、卑弥呼が大切にしていた鏡は、吉野川南岸の「とぎの山」に埋められたでしょう。後年建設された春日神社の御神体が鏡であることからも類推できます。

旧本川村脇ノ山に伝わる土佐神楽は、卑弥呼に因んだものかもしれません。

大座礼山を北に行った所、愛媛県旧別子山村の銅山川沿いには「弟地」という所があります。

卑弥呼の摂政であった弟は、ここに移って卑弥呼の埋葬地を守ったのです。そして卑弥呼の後を継いだ「伊与」の後見をしたと想像できます。

愛媛の旧国名伊予は「伊与」に因んだものであり、愛媛(可愛い姫)とは伊与のことなのでしょう。

伊与の国は久万高原にあったと推測しています。

以上が私自身の邪馬台国論です。

香北町日ノ御子のある辺りは旧香北町が合併する前は在所村と言いました。

在所(ざいしょ)とは本当は御在所で高貴な方がいらっしゃる所を表しているのではなかったかと思えます。

地名から随分色々想像しました。

妄想に近いでしょうが、楽しかったです。

各地でも好き勝手なことを言っていいと思います。

土佐邪馬台国論が少しでも高知県民を元気にするなら何よりです。

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2008年5月22日 (木)

土佐人の物語

土佐人の成り立ちを探求してみましょう。

遥か昔、土佐には原始的な生活をしていた人々がいました。

それが縄文文化に結実していきます。

縄文文化を持った人々が外からやってきた可能性もあるでしょう。

いずれにしろ土佐の各地に縄文文化が花開きました。

その後、弥生文化を持った人々がやってきました。

土佐には、縄文遺跡も弥生遺跡もたくさんあります。

物部川流域ではそれらが重なって存在しています。

梅原猛さんによると、縄文人と弥生人が融合して日本人が生まれたということですが、その地は土佐だったのかもしれません。

縄文人は山の森に住み、弥生人は川沿いの低湿地帯に住んでいたので、棲み分けがされていたと考えることもできますが、すぐそばに住んでいるのだから、何らかの交流があったと考える方が自然です。

弥生人の力が強いところでは、縄文人を吸収し、国を形作っていくことになるのですが、土佐では縄文人の勢いが強く、縄文の精神を色濃く残すことになったのでしょう。

自然の恵みが豊かなので、無理に米作りをしなくても、雑穀や芋、果実で十分食べていくことができたと想像できます。

これらはそれほど共同作業を必要としません。

土佐人の共同作業の下手さは古代からのものではないかと思われます。

縄文の精神を色濃く残し、アニミズム的世界の中で(神話的世界と言ってもよいでしょう)、神とともに(見えざる大きな力とともに)生活していたでしょう。

土佐に邪馬台国があったと充分考えることができます。

むしろそう考えることが自然かもしれません。

(土佐邪馬台国論はナカちゃんのブログをどうぞ)

大和政権がどこに誕生したのか、土佐にあった邪馬台国から発展したのか、次回に続きます。

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2008年5月12日 (月)

余談ながら

「秘密のケンミンショー」というテレビ番組があります。

各県独特の文化・風俗・産物を面白く伝えて人気が出ているようです。

今まで各地方は、中央との関係だけを重視して、各地方同士が知り合う機会を持ってこなかったのではないでしょうか。

この番組はお互いが理解しあうことで本当の日本人を創造していく役割を果たしているのかもしれません。

興味深い内容もあります。

大将軍を信じる山形県民は素晴らしい。目に見えないものを信じることは尊いことです。

謙虚さを忘れない、安定した社会を築いていけると思われます。

しかし、興味本位の取り上げ、過剰な演出は誤解を招くこともあるでしょう。

高知県民は何もウツボばかり食べているわけではありません。

ウツボが日常食のように報じられるのは少し違う気がします。

高知VS徳島の言い争いをさせるのではなく、相互理解を進める方向に持っていってもらいたいものです。

質の高い番組を期待します。

「絶景アジア紀行」を高く評価しています。

インドで動物が神となったことをその大地と絡ませて映像化していました。

フレイザー卿の「金枝篇」を読んでも、原初の神は動物であったこと、動物の力を崇拝したことが述べられています。

土佐では、動物名を名前に取り入れることが古くから行われてきました。(司馬遼太郎さんも述べています)

動物を名前に入れることで、その力にあやかろうとしたり、守ってもらおうとしたにちがいありません。

信仰の原初形態が生きていると言えましょう。

札幌市に住む方より、私に「御教示頂きたい」とのメールがありました。

ありがたいことです。学んだことや考えたことが役に立つなら、うれしいことです。

どのような問い合わせにも可能な限りは答えていきたいと思っています。

気軽に連絡してください。

但し、私は何か絶対的なものを持っているわけではありませんし、自分の考えを教条化するつもりもありません。

語り合うことでより深めていきたいと常に思っています。

自分と違う感性や思考に触れることは大変有意義なものです。

楽しい交流を期待しています。

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2008年5月 8日 (木)

出会いの喜び~4月下旬の日々

今回は私の多くの人に出会った日々を述べます。

4月25日、前稿で触れたナカちゃんがはりまや橋商店街の占い(最近はよろず相談所と称していますが)の場所に来てくれました。

翌日の番組収録のことを西村さんと一緒に打ち合わせをした後、色々語り合いましたが、とても面白かった。

高知に邪馬台国があったなんて、ちょっと聞くと荒唐無稽ですが、ロマンがあって、この手の話は大好きです。

多くの人が参加して盛り上げていくといいと思いました。

ナカちゃんは、発想力や表現力があって面白い人物です。彼のブログ「土佐ローカリズムちや」も是非ご覧ください。

4月26日、高知シティFMのスタジオで番組収録をしました。

Shuuroku1_r 西村さんが質問項目を考えていてくれていて、ナカちゃんと私が答えていくというようにやりました。

5週間分収録したのですが、最初の3週間分は話す内容もまとめてあり、自信のもてる出来なのですが、後の2週分はぶっつけ本番で自分でも何を言っているのか、何を言いたいのか、よくわからない感じでした。

放送では少しお聞き苦しい点があるかもしれません。

ナカちゃんの話は終始ぶれず、しっかりしているので、是非聞いていただきたいです。

その後、3人で喫茶店に行き楽しい時を過ごしました。

4月28日、はりまや橋商店街にある「めろでぃ~」さんところで毎月28日集まりをしているのですが(土佐のおきゃく)、ナカちゃんにも来てもらいました。

毎月、私は少しづつ土佐の南学について調べて発表しています。

学問的というより、直観的で、殆ど誰も言ってないようなことも言ってます。

いずれ、このブログでも公開していきたいと思っています。

ナカちゃんも含めて大いに語り合い楽しい時間を過ごしました。

4月29日、ナカちゃんの知り合いのお宅(時々レストランにもなるようですが)で集まりがあり、色々な人と出会うことができました。

インスピレーションの鋭い人、地域づくりに取り組んでいる人、新たな生き方を模索している人など多彩な人が集まっていて、楽しい語り合いができました。

ユニークな人の多いのは高知のいいところです。

こういう集まりは是非続けてもらいたいと思っています。

新しい活動を始めようとするとき、共感してくれたり、意見を言い合える人の存在は何よりありがたいものです。

行き難い時代だからこそ、お互いに共感したり、応援できる場が貴重です。

話を聞いていて、高知から世界が変わるかもしれないと思いました。

勿論、各地で市場主義を越えて、世界を変えていける活動が始まることを期待しています。

私も常に真理を求め、語り伝えることで寄与していきたいと願っています。

これらの日々はナカちゃんのおかげで実り多い時でした。ありがたいことです。

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2008年5月 7日 (水)

高知の根源・由来を考える

そういうテーマのラジオ番組に出演しました。

西村さん司会で、時々コメントしてくれているナカちゃんと一緒にです。

放送は8月の毎週金曜日8:10am頃から、FMで76.2です。

以下各回のテーマと私の発言要旨をまとめておきますが、ナカちゃんの話も面白いので聞ける方はぜひ聞いてください。

(1)グローバル社会と高知の世界について

前稿で述べたようなことです。お金から物・サービス更には人や命に視点を移し、共有・贈与を中心にして、結や講を再興することが大切です。

高知の原始的逞しさが発揮されるべき時です。

(2)高知らしさ・土佐らしさ

時代を切り開く先駆性、原始的逞しさ、熱情、楽天さなどは代表的でしょう。

(3)土佐邪馬台国について

この回はナカちゃんが主に話しました。

土佐人には縄文の精神が色濃く残っている、いごっそうは様々な要因によって屈折させられた縄文人であることなどです。

(4)高知学・土佐学研究所をこしらえよう

貧しくても堂々と生きるには、自分達に誇りを持つこと、市場主義に流されない価値観を持つことが必要です。

それには歴史を大切にすることです。

高知らしさを体系的に表していくには、研究所が必要となるでしょう。

(5)高知は独立国になれ

坂本龍馬も構想していたと思われる天皇を中心とした諸藩連合がよいのではないでしょうか。

藩を発展させて、半ば独立国とし日本合衆国(USJ)を作るのです。

高知は食べ物が豊富だし、木材を生かせばエネルギーも自給できます。

安全保障の一環として、日本国憲法第9条の精神を、日本国の代わりに(或いは連携して)、世界中に広めていけばいいでしょう。

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2008年4月23日 (水)

高知県は独立するか

いささか突拍子もないタイトルです。

現在高知新聞に坂東真砂子さんの「やっちゃれ、やっちゃれ、高知県独立宣言」という小説が週一回で連載されています。

同紙では04年に「時の方舟」という連載企画があり、その中で高知県独立の近未来フィクションも載せていました。

古くは自由民権運動の中でも、高知県独立論は議論されたようです。

高知県では割とよく出てくるテーマと言えるでしょう。

全くの独立は難しいと思いますが、各県が(或いは幾つかの県が)高度に自立した州となり、連邦制の国家を形成することはできるのではないでしょうか。

道州制が単なる財政再建のための方策ではなく、各地域の自立をはかる活性化策になり、地方住民の生活を安定させるものになることを願っています。

州ではなく藩でもよいでしょう。

明治の廃藩置県をもじって、一頃「廃県置藩」が主張されたことがありました。

江戸時代の藩は現在の県よりはるかに自立していたと言えるでしょうから。

天皇を中心に各藩が連合して国家を形成するという構想は、坂本龍馬も抱いていたと思われます。

日本の新しい方向として(国家像としてはちっとも新しくはありません)真剣に考えてもよいのではないでしょうか。

英語では、United States of Japan (USJ)と表現するとよいでしょう。

大阪にあるUSJは各「国」の物産販売やイベントをするテーマパークとして再編成するといいでしょう。

そうすると、大阪は昔「商都」として栄えたように、人も物も集まってきて再生するでしょう。

橋下知事ももう泣かないで、笑顔になること間違いなしだと思えるのですが、いかがでしょうか。

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2008年4月15日 (火)

土佐人はどんな人間か2

土佐人は結構複雑にできています。

いずれ、歴史を振り返りながら考えてみたいと思います。

今回は土佐人の典型的・代表的性格である「はちきん」・「いごっそう」を取り上げます。

はちきんは、おてんば、男勝りのえらものの女性のことを指します。

またおおらかで逞しく、自立していて、意気軒昂、何より元気です。

何故はちきんと言うのかは色々説があるのですが、4人の男を手玉に取るくらいの女であるからというものもあります。

男は一人が二つの金を持っていますから。(手術してなくしてしまった人もいますが)

はちきれるばかりの黄金というイメージもよいでしょう。

男の方は、いごっそうです。

近藤勝氏によると、いごっそうというのは共通語にぴったりとした言葉がないので、いくつもの言葉を重ねなければならないとしています。

それは、頑固、一徹、偏屈、強情っぱり、片意地、がむしゃら、負けず嫌い、天邪鬼、独りよがり、わがまま、ひねくれ、すねもの、やせ我慢、つむじまがり、唯我独尊、傲慢不遜などです。

あまりよい人格には思えないのですが、ある人は愛すべき正常人だと述べていますし、こういう人も受け入れられる土佐の大らかさと言えるかもしれません。

いごっそうは漢字では異骨相と書くのが一般的です。

骨相が異なる、異人種であるという感じです。

縄文時代の風俗を色濃く残す土佐人を見た人が感じたものを見事に表しているのではないかと想像します。

いごっそうは自分自身の世界・価値基準を持つ独立自尊の「変人」と言えるでしょう。

自分の世界では、完全を目指し、その美学に酔っていることが多いのですが、他の世界とはうまく関係できないことが多いようです。

受け入れられることが少ないから、ひねたり、すねたり、頑なになったりします。

しかし、独立自尊の大いなるエネルギーを持っているので、いざというときには大きな力を発揮します。

時代の変革期にこそ必要な人材です。

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2008年4月10日 (木)

土佐人はどんな人間か

先ず強い自我を持っています。荒ぶる魂を宿していると言えるでしょう。

そこから協調せず妥協しない一匹狼像が浮かび上がります。

議論は好きなのですが、賭け事好き・勝負好きとあいまって、白黒つけたがり、人の話を充分に聞かず、一蹴否定し、自分の意見を押し付けるところがあります。

話し合って同じ土俵、協力できる部分を見つけるのではなく、言いっぱなし・聞きっぱなしが多いです。

負けるが勝ちにならず、議論に勝って実益で負けていることもよくあります。

議論は本質論・瑣末論が多く、現実から離れがち・極端になりがちです。

話し合うことで人間関係を深める事も不得手です。

短気で、辛抱が足りず、激情に振り回されている事も関係しています。

よく暴発・激発します。

反骨にして反抗精神も旺盛です。

権力を嫌い、在野精神も旺盛です。

自由を愛するが故です。

現世肯定的・享楽的な傾向があります。

今さえ良ければいい、気分次第で後先考えず行動します。

からりと明るく開放的ですが、社会的・社交的ではないのです。

自己主張が強く、自分を絶対化する傾向がありますが、攻めるに強くても守りは弱いです。

あっさりしているけど怒りっぽい、猛々しく、頑固で、意志が強いが我も強い、明るく情熱的で、強情で、勝気で、短気と、非常に扱いにくいのが土佐人です。

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2008年4月 1日 (火)

土佐と高知

高知県の旧国名が土佐です。

土佐の名は古く、古事記にも登場しています。(土左と表記されていますが)

土佐の由来は、浦戸湾口が狭いので門狭からきたとか、都から遠く離れているところからきたとか色々あるようです。

アイヌ語でトサとは川尻の沼地を指します。これも有力な説です。

アイヌ語の地名は日本中に数多くあります。高知県西部にある宿毛(すくも)市もアイヌ語系だと言われています。

高知という名称は江戸時代初期に始まります。

山内一豊は高知城を築いたのですが、最初その城山を河中山(こうちやま)と名づけていました。

北に江ノ口川、南に鏡川が流れていたからです。

その後洪水の被害に苦しめられ、二代藩主忠義は河中山という名前が良くないのではないかと思い、竹林寺(四国霊場31番札所)の空鏡上人に相談します。

竹林寺の御本尊は文殊菩薩であり、仏の高い智慧を象徴する菩薩様です。

空鏡上人は、この高い智慧に因んで、同じ音である高智山と改名します。

智は下の日が取れていつの間にか、高知というようになったということです。

高知は、城山の名から、街の名を経て、県名になったというわけです。

この由来を知ると高知県民はもっと高い知恵を発揮しなくてはならないように思います。

歴史的に分けると、江戸時代までは土佐、明治以降は高知ということもできます。

歴史・文化・精神を探究するのは土佐学、現状を分析し新たな経済を提唱すべく知恵を発揮するのが高知学とも言えます。

どちらも必要です。

両者によって、我々に誇りが戻り、未来が開けていくとよいと思います。

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2008年3月27日 (木)

高知学・土佐学のすすめ2

前稿を補足します。

現在、地方社会は不景気で疲弊しています。

様々な原因はありますが、根源的には社会のシステムに問題があります。

それは、全ての価値を金銭価値に置き換え、市場化し売買しようとする市場主義にあります。

全てのものを一元的に金銭価値に置き換えることは可能なことだったのでしょうか?

それをして幸せになることだったのでしょうか?

人間関係における友情・愛情・思いやり・やすらぎ、自然の与えてくれる様々な恵み、喜び・達成感・充実感など、自分が生きていくことで手に入れることができるものは、売買することなどできないはずです。

それに似たもの・偽物なら売買されているようですが。

市場を万能だと考え続けるなら、格差はさらに広がり続け、地方社会は奪われ続けるでしょう。

お金に換算されない価値をどれだけ見つけていけるかが大切です。

収入・所得が少ないというだけで、引け目を感じることも自信を失うこともありません。

各地方には素晴らしい宝がたくさんあります。

それに気づき、正当に評価していきたいものです。

土佐人・高知県民が自分たちの歴史・伝統・文化・精神風土を知り、自分たちの長所・短所を知り、なぜそうなったかを知れば、自己理解が進むでしょう。

自己理解が進めば、自分を正当に評価し自信を持つこともできるようになります。

自分を愛することもできるようになります。

今まで嫌だと思っていたことも別の捉え方ができるようになるかもしれません。

土佐人に自信を取り戻してもらいたい。

そういう祈りを込めて、ささやかな活動ではありますが続けていきたいと思います。

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2008年3月24日 (月)

高知学・土佐学のすすめ

これまで縄文精神を探求してきました。

縄文の精神は、他者を歓迎し、功利性を嫌い、激情にかられ、創造と破壊の力を持つなどの特徴があることがわかってきました。

まだまだ探求することは多いのですが、ここで縄文の精神を色濃く残す土佐の高知に視点をあてて、しばらく高知について色々考えてみたいと思っています。

私自身が高知に住む土佐人ですので、自分自身を知るためにも探求したいのですが、県外の人に知ってもらうことにより、よりよい関係を築く機会にもなるでしょう。

明治以来日本人は近代化に夢中で自分たちのことを深く考えたり振り返ってこなかったのではなかったでしょうか。

西洋伝来の近代的自我に自分を合わせ、窮屈な中で近代社会・国家を建設してきたのです。

近代化とは、全ての関係性・共同性を破壊して人間を孤立させる過程ではなかったでしょうか。

今、地域社会も家族関係も職場の人間関係も破壊され、我々は居場所を失っているように感じられます。

これからどこを目指して生きていけばよいのでしょうか。

何らかの関係性を取り戻していかなくてはならないでしょう。

何かの神・主義・象徴の下に集まり団結することも可能でしょう。

何処かの国のように愛国教育をすることによってまとめていくのも一つのやり方です。

しかし作為的でありすぎます。

まず地域の現状・歴史・精神・文化を学んで、改めて地域文化を自分の中に納めれば、同じ文化を持つ人に対してはつながりがもちやすくなるでしょう。

地域学はお国自慢のためにあるのではなく、共同性を復活させ、新たな生き方をさぐるものです。

それは市場社会の中にあって、それを否定・相対化する方向を確立することにもなると思います。

私は土佐人なので、高知学・土佐学をやります。

他の地方・地域でもよりよく生きられる地域学が提唱されることを祈っています。

それは希望を紡ぐ行為でもあるでしょう。

次回より始めます。

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