経済問題

2009年2月12日 (木)

保護貿易主義のどこがいけないのでしょうか

少し前に、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)が閉幕しました。

反ダボスデモも行われたということですが、ダボス会議によって明らかになったことが一つあります。

それは、各国指導者が一堂に会して議論しても、危機脱却の道筋は見えてこなかったということです。

これまでの常識は使えないということです。

米国の「バイ・アメリカン」政策を保護主義だとして、世界貿易機関の事務局長が「国際的義務を損なわないよう」と米議会に自制を求める発言をしているようです。

しかし、国際的な義務とは何でしょう。

そもそも保護貿易主義のどこがいけないのでしょうか。

国際的な貿易が一定水準に保たれることによって、世界全体の健全な発展や生活が保障されるというのは確かにあるのかもしれません。

しかし、国内が経済危機に陥っているとき、国産商品の利用を勧めて経済の立て直しをはかるのは当然のことではないでしょうか。

もちろん他国の製品を締め出す法案を作ったりすることは行き過ぎでしょう。

しかし、危機感を共有し、お互い助け合う精神を鼓舞し、国産品の利用を促していくことは、政治家として当然取るべき道、いや取らなくてはならない道なのです。

各国が自国の中で経済を立て直す工夫をすることは間違っていないことです。

さらに、国産品を使うことは、地産地消に近く、省エネルギーでもあるので、地球に優しいと言えます。

もっとも福岡などでは、北海道の製品を移入するよりも、韓国の製品を輸入するほうが理にかなっているのでしょうが。

とにかく今までの常識は疑ってかからなくてはならないでしょう。

そして、一つの考えで全てうまく解決するほど世の中は単純ではありません。

その時々、場所、場合に応じた解決策を見つけていかなくてはならないのです。

それもその場所にいる人たちが主体的にです。

いまやグローバルな金融資本主義ではうまくいかなかった、破綻が来たことは明らかになったわけですから、各国が経済の根本を見直し、立て直しの工夫をすべき時でしょう。

貿易額が減少することが悪いことでしょうか。

貿易額の多寡で経済を考えているからそうなるのではないでしょうか。

お金が少なくなれば、使用を減らすのが当たり前です。

お金がないのに、借金をして消費を続けていくことこそ異常ではないでしょうか。

世界同時不況にある現在、貿易額が減少し、各国が保護貿易主義的になるのは自然な流れです。

人類の生存を保障していくのは、貿易による経済発展だけではないはずです。

先ず身近なものたちが助け合い、余力を他に及ぼすというあり方もあるし、それが自然です。

貿易額を維持しても、生活が安定しなければ困ります。

人は、貿易額の数字や株価によって生活しているのでもなければ、幸せになるのでもありません。

自分たちにとってよりよいものを生産し、生み出すことによって生きているのです。

我々の中から議論が起こり、世界の方向性が見えてくればと願っています。

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2007年1月15日 (月)

仏教的経済思想構築の試み30

お金ではなく、物・サービスに焦点を当て、お互いに提供しあうことにより、豊かな生活を築くことができます。

金に焦点を当てれば、金に支配されます。

金に支配されると、すべての価値を金に換算しなければならず、喜びは金額が増えることだけになってしまい、心貧しいものになってしまいます。

金以外の価値が認められなければ、そういう方向に向かってしまうでしょう。

人間の価値観や喜びはもっと多様であるべきです。

八方塞がりの現状を打開する鍵はこの辺にあるように思えます。

それは同時に、伝統的価値観、規範意識、社会構造や体制が崩壊し、一億総欝時代とも言われている現代に光をもたらしてくれるのではないかと期待しています。

誰かの思想によって一気に問題が解決するほど単純ではありませんが、各自が多様性と可能性を求めていけば、より生きやすくなるでしょう。

それは、地域社会にとっても人類にとっても財産になるに違いありません。

多様な価値観を大切にしたいものです。

そういう方向で地域社会を豊かにすべく活動している人にこそ光が当てられるべきでしょう。

市場万能資本主義・マネー資本主義がこのまま続けば、格差はさらに拡大し、金持ちも貧困層も共に行き詰まるでしょう。

自分の生活からお金に依存する比重を減らしていくことが打開の方法です。

貸してもらう・もらう・共有の道を探るもありますが、無しで済ませるのもよい方法です。

本当に必要なものかどうかよく吟味してみるよい機会です。

必要ないものを必要だと思い込まされ、欲望を掻き立てられ、買わされていることはよくあることですから。

吟味するには、判断基準(哲学)、人間性が問われます。

この稿は一旦ここで終わりにして、次回からは判断基準の形成に役立つような論考や随想を述べていきたいと思っています。

さらにお付き合いくださいませ。 

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2007年1月12日 (金)

仏教的経済思想構築の試み29

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新しい発想とはどんなものでしょうか?

それは本来あるべき発想とも言えます。

人間が生きるのに必要なのは金ではない、ということです。

まず、食糧・衣服・住居、その他生活に必要なもの、さらに人間関係、愛などであると考えられます。

お金は生活の満足を満たすために(交換手段に便利だからということで)、便宜的に生み出されたものです。

それが今では「神」になっています。

生活に必要なもの、価値あるものを求めることが、金を求めることになっています。

それでは価値観・意味は失われてしまい、際限のないマネー獲得競争に巻き込まれてしまいます。

そしてマネーゲームは生活からきりはなれて無限に膨張する自己増殖活動を展開するようになっています。

内橋克人さんが言うように、人間はもはや搾取の対象ではなく、排除の対象になっているのかも知れません。

もう一度、お金と生活をリンクさせねばなりません。

お互いを大切にして(人に焦点を当て)、(物・サービスに焦点を当て)、分け合うことにより地域社会の未来が開けてくるはずです。

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2007年1月11日 (木)

仏教的経済思想構築の試み28

地域こそ共に生きる場です。

地域経済では助け合って、物・サービスを提供しあうべきなのです。

金持ちになるために奪い合ってはなりません。

できるだけ多くの人を知り、理解し、違いを認めて、相手の人生を尊重し、自分も理解してもらうようでありたいものです。

相互尊重・相互依存で生きていくことは、一昔前の「おかげ様」の精神を取り戻すことでもあります。

より豊かな人生を送るには相手を尊重することが必要なのはいうまでもありません。

その根幹にあるのは「与える」精神です。

多くの人が与える精神を持ち、関わるなら安心して過ごしていける地域社会ができるでしょう。

地域経済は、そういう地域づくりを具体化させる方法です。

自分の持っているものを必要としている人がいたら、貸してあげたり、あげたりするべきなのです。

必要なものは、買うより先に共有の道やかしてもらったりもらったりする道を探してはどうでしょうか。

買う時は、リサイクルショップで買うとよいでしょう。

お金が回らないと経済は活性化しないのでしょうか?

一部でお金はすごく回っていても、庶民にとってはちっとも楽にはならないし、地方の経済は活性化していないのが現在の状況です。

新しい発想が必要です。

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2006年12月22日 (金)

仏教的経済思想構築の試み27

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地域社会こそ共に生きていく場です。

軽んじてはなりません。

確かに今地域社会は崩壊しています。

何故崩壊したのでしょうか?

人と人のつながりが希薄になり、地域が生活の場でなくなったからでしょうか。

我々は自由を手に入れたかもしれませんが、大事なものを失っているのではないでしょうか。

人をおもいやらず、「自分さえよければよい」(自分の子供さえよければいい)と、自分のことしか考えなければ地域は崩壊するに決まっています。

地域社会というとどろどろの横溝正史的な人間関係を連想する人もいます。

確かに未だに個人を抑圧する面の残っている所もあるでしょう。

しかし、関係を否定していては、大事なつながりも切れてしまいます。

相手を尊重し、自分の個性も認めてもらえる地域社会のあり方は可能のはずですし、探求すべきです。

みんなが同じにはなりえません。

違っているけれど協力できるとみんなが信じ、実践していくことが大切です。

異質なものの結合が創造を生むのですから。(夫婦でも地域社会でも)

それは同時に寛容性の文化を育てることになるでしょう。

仏教では、多様性を認めながら、それらが相互に依存、つながっていると説いています。

地域社会再生の思想基盤になるでしょう。

次回は地域経済を考えます。

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2006年12月15日 (金)

仏教的経済思想構築の試み23

個人レベルの問題を考えていきます。

食糧を分け合う気持ちが大切だと述べました。

日本の現状は、飢えている人が目立たないようになっていますが、確実に存在しています。いざという時与える心を持っていたいものです。

個人所有を前提にして与えるのもよい行為には違いありませんが、本来の姿なのかよく考えてみる必要があります。

自分で畑を耕して作ったものは、自分のものと主張することは自然なことと考えられます。

でも本当にそうでしょうか。

土地は自分が作ったものではありません。

太陽の光も水もそうです。

個人所有は仮のものと考えることが肝要です。

個人が独占するのでは、ものの価値も小さなものになりますが、分け合うなら価値は大きくなっていきます。

全てのものが関わりの中に存在しているのなら、貴方の作った作物も関わりの中にあると考えることも出来るはずです。

人とのよりよい関係に使っていってもいいでしょうし、本来必要としている人のもとに行くべきものと考えることも出来るはずです。

所有欲を野放しにしておくと際限なく拡大するし、対応できなくなります。

全ての人に「布施」行が必要だと言えます。

布施行は個人を精神的に豊かにして、社会的には富を均していくからです。 

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2006年10月 6日 (金)

経済のあるべき姿を構想する13

マネーゲームについて考えています。

前回はややこしかったですが、端的に言えば、ヘッジファンドは、経済学の想定以上の巨大マネーを動かして、世界経済に害を及ぼしているという事です。

自由競争として許されるレベルではないのです。

経済が(生活も)壊れつつある現在、人間のあるべき姿に立ち返り、新しい経済や社会の安定を求め、試行錯誤すべきなのです。

驚くほど巨大なマネーを動かしながら、自分達だけの利益しか考えないのはどうでしょうか?

お金を持てば持つほど、社会性が要求されるはずです。

「自分さえよければ」では通らないのです。

「ゲーム理論」にも、自分だけの利益を目指す非協力型ゲーム理論だけではなく、60年代には、共に成功を目指す協力型ゲーム理論も研究されていました。

後者こそ人間のあるべき姿に近いです。

人をつなぐゲームなら大歓迎です。

もっとつながりを意識し、大切にする事が必要です。

我々は人類という大きな生物の一部です。

一部だけが富みかつ栄え、肥大化しては不幸になります。

全ての人が全人類の意識を持つべきです。

「持てる者」には必須です。

次回まとめます。

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2006年10月 5日 (木)

経済のあるべき姿を構想する12

今回はマネーゲームについて考えます。

世界規模でお金を奪い合うマネーゲームが盛んです。

本当のゲームなら構いません。

また余っているお金を使って小規模に行われるなら影響も少ないでしょう。

しかし現代経済は全てマネーゲーム化して、生活を壊そうとしています。

全ての人がマネーゲームに呑みこまれ、安定・安心をなくしています。

マネーゲームの本質を見極めましょう。

マネーゲームの主要なプレイヤーであるヘッジファンドは、金融工学を基にしており、金融工学はミクロ経済学を、ミクロ経済学は完全競争を前提にしています。

完全競争は、多数の売り手と買手が存在し、同質な財の全情報を共有し、個々の取引は市場に影響を与えないくらい小規模という事になっています。

完全競争では小取引を想定しているのに、ヘッジファンドは、一国の経済に影響を与える事をしています。

90年代の東南アジア通貨危機はアメリカのヘッジファンドが引き起こしたものでした。

一国を危機に陥れる行為でも、自由競争として守らなくてはならないのでしょうか。

金融テロと考え、被害を防ぐのがあるべき姿ではないでしょうか。

続きます。

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2006年10月 2日 (月)

経済のあるべき姿を構想する11

前回に続けて、経済の間違いを考えます。

一番の間違いはお金が投機の対象となっていること、つまりお金でお金を買うことが日常的に行われていることです。

貿易に付随する両替の範囲をはるかに超えて、為替取引がなされています。

それは、お金の奪い合いに他なりません。

そんなことに力を注いでいると、金しか見えなくなり、必要なものは生産されなくなります。

おいしい野菜を作ったり、快適な家を建てて得られるお金よりもはるかに大きな額のお金が、電子マネーとして取引されています。

お金の多寡でしか、価値を量らない社会を豊かと言えるでしょうか?

市場に任せておけばうまくいくという議論がありますが、よく現実を見ねばなりません。

市場がモラルやマナーを作るのではありません。

それを作るのは、我々の意識・価値観なのです。

与えること・よりよい社会を築くことを忘れて、自分の利害で判断し、自分さえ儲ければ、相手の事は知らないとなると社会はもちません。

相手を出し抜いて、うまく誤魔化して奪ってもいいとなりがちです。

共によりよい社会を築いていくのが、最低限のモラルです。

お金に縛られるのはもうやめて、お金以外或いはお金以上の価値を見つけてほしいと願っています。

次回も色々考えます。

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2006年10月 1日 (日)

経済のあるべき姿を構想する10

今回は会社のあるべき姿を考えます。

会社は誰のものかという議論があります。

社会の財産であり、誰のものでもありません。

オーナー企業でも、従業員や取引先など利害関係者はたくさんいるでしょう。

多くの人の気持ちを探り、配慮することは経営者の使命です。

また顧客の気持ちを想像してみる事も必要です。

自分が起業したのであっても、全株所有していても、自分だけの力で会社は成り立ちません。

自分のものという傲慢さは排除しなければなりません。

会社は、社会のニーズを知り、社会が必要とするものを提供すべきものです。

必要ないものを欲望をかきたてたり、思い違いさせて無理に売りつけてはなりません。

製品・サービスを提供する事で、人々に喜びを与えるべきなのです。

会社が社会からお金を吸い上げ、株主に還元することは間違いです。

経営の神様P・F・ドラッガーは、株主資本主義は社会に害悪を与えると述べています。

株主は短期の配当拡大を求めるのではなく、社会の財産を増やす観点から業績を評価すべきです。

会社は利他業をする場でなくてはなりません。

現在の経済の間違いをもう少し考えます。

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