占い師の哲学

2007年11月 9日 (金)

聖徳太子幻想2

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古事記の記述内容には聖徳太子の思想が込められていて、アマテラス、ツクヨミ、スサノオはそれぞれ推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子のことを指している事を前回述べました。

太子は、少年期に蘇我氏と物部氏の戦いを経験しました。
蘇我氏側として出陣していますが、積極的に戦いに参加していたとは考えにくいです。
四天王を彫ったりして、戦いの終結を望んでいたのではないかと思います。

太子は早い時期に対立を経験して、一つの原理・思想を奉じるだけでは、社会は治まらないことを悟ったのではないかと想像します。

仏教と神道の対立を収めるために工夫されたのが神仏習合の思想です。

古代・中世の神道は仏教の理論を取り入れることにより発展したように、仏教も神道も対立することなく発展することができました。

しかし、二つの思想では容易に二項対立・正邪・善悪論に陥ってしまいます。

三者が微妙なバランスを取りながら調和融合する形が理想と考えられます。

キリスト教の三位一体論を取り入れたのかもしれません。

太子は、キリスト教・仏教・儒教を調和融合させ、その内容を比喩的に表そうとしたのが「古事記」の起源だったのではないかと推測します。

だから、アマテラス・ツクヨミ・スサノオはそれぞれ持ち味を活かしながら、協力して世界を治めていく物語になるはずでした。

それが、推古・太子・馬子の動きに合わせて今のような形になったのではないでしょうか。

今の形にしたのは、太子の本意なのか、梅原猛さんが言うように藤原不比等の意思で柿本人麻呂が作成したのかは今後考えていきたいと思っています。

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2007年11月 2日 (金)

聖徳太子幻想

今回は、聖徳太子に関して考えたことを述べておきます。

最初は法隆寺に行くツアーに参加することになり、法隆寺に関する解説をするよう求められて調べたことから始まりました。
それまでの聖徳太子の知識が総合されて、三宝の本質が分かってきました。
それは思い込み、こじつけ、ファンタジーに類するものかもしれません。
しかし、新しい認識が生まれることは大いなる喜びをもたらします。
中には多くの人の支持を集めるものも出てくるかもしれません。

今、三宝の思想を明らかにしようとしています。
仏教・儒教・キリスト教を調和融合させたものはどのようになるのか自分でも楽しみです。
これをさらに発展させれば、世界中の思想を調和させることもできるかもしれません。
現代の三大宗教で考えるなら、仏教・キリスト教・イスラム教になりますし、宗教だけでなく人類に影響を与えている色々な思想を調和させることができるかもしれません。
今の様々な対立を収めていく方向が見出されるかもしれません。

聖徳太子の三宝の思想は「古事記」にも影響を与えているのではないかと思っています。
古事記の原本とも言える「旧事記」の作成には太子が関わっていると考えられるからです。
どこまで太子の本意を表しているかはわかりませんが、ここは想像を逞しくしてみます。

古事記に出てくる、アマテラス、ツクヨミ、スサノオはそれぞれ推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子を表していると考えてみるのはどうでしょうか。
古事記の読まれ方が大きく変わるかもしれません。
さらにキリスト教・仏教・儒教を象徴させているかもしれません。

とんでもない思いつきかもしれませんが、そういうことも今後展開していきたいと思っています。

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2007年9月 3日 (月)

聖徳太子の思想

最近、法隆寺について調べることがあって、聖徳太子についても学び直しているのですが、太子は謎に包まれています。

単に仏教の導入者・擁護者と捉えていいのだろうかという思いがしています。

聖徳太子については、これまで様々な考察がされてきているし、色々な太子像があってもよいでしょう。

ここでも新たな太子像を提起してみたいのです。

冠位十二階(大小の徳・仁・礼・信・義・智)には儒教の影響がうかがえます。

聖徳太子のエピソードにはイエス・キリストそっくりのものがあります。

当時の中国には、「大秦景教流行中国碑」の記述からも明らかなように、景教(ネストリウス派キリスト教)が隆盛を極めていました。

一度に十人の話を聞き分けた耳聡い聖徳太子のことですから、これらの思想を十分に知っていたでしょう。

「和を以って貴しとなす」と説いた太子が、単に仏教のみを重視するとは思えないのです。

憲法十七条の「篤く三宝を敬え、三宝とは仏・法・僧なり」というのは、どうやら当時の政治状況や仏教側の圧力によって改ざんされた結果であるようです。

法隆寺の柱に見られる国際性を考える時、聖徳太子の思想はもっと違っていた、国際的かつ包括的なものではかと思えます。

「篤く三宝を敬え」ではなく「篤く三教を敬え」だったのではないでしょうか。

三教とは、仏教・儒教・景教(ネストリウス派キリスト教)です。

聖徳太子は、三教を敬い融合させようとしていたのではないかと思えるのです。

その思想は中々理解されにくかったので、後々仏教勢力などによって利用されてきたのではなかったでしょうか。

政治的にも利用されました。例えば、昔の一万円札の太子像は明治天皇に似せて描かれています。国威掲揚の手段に使われたのです。

今こそ聖徳太子の思想を再興すべきではないのかと考えました。

キリスト教には、父なる神・子なるイエス・聖霊は一体であるという三位一体論がありますが、これをイメージするなら、仏教・儒教・景教を各要素として統合包括する思想が可能になるのではないでしょうか。

それは世界を救う思想になるかもしれません。

9月下旬には法隆寺に参拝して、何かを感じてきます。

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2007年8月 9日 (木)

徒然なるままに

参院選で惨敗したのに続投している安倍総理、人間引き際が大切です。

居座る姿は美しくない。

どうしても続投したいというのなら、参院選の結果を受けて何を反省してどう変えるかを明らかにすべきでしょう。

このまま何の変化もなく続投を許してはなりません。

自民党ももっと責任を追及すべきです。

谷垣派の中谷元氏が辞任要求の口火を切りましたが、全党的に広がるとよいでしょう。

自民党の支持者ではありませんが、末期的な状態には不安をおぼえます。

保守本流を支える哲学が必要です。

自民党には、かつて石橋湛山という思想基盤のある総裁を擁していた時期があるのですから、もっと納得のできる言説を聞きたいものです。

政治は、多数決のゲームではありません。

利害を調整し、思索を深めていくことこそあるべき姿です。

政治家には、人間通であってほしい、その上でよりあるべき姿に近づく努力をしてほしいものです。

思索の深まらないところにまともな政治はありません。

思慮深い政治家を選びたいものです。

深く考え、話し合い、さらに考えて、我々は少しは賢くなっていけるのではないでしょうか。

自分の考えが相手に通じないことは、しばしばあるかもしれません。

しかし通じる相手もいるでしょう。

多くの人と会話をして自分の考えがどのくらい理解され、支持されているかを知ることは大切です。

独断・独善に陥らないようにしなくてはなりません。

安倍総理はそうなっています。

しかもしようとしていることには大いに疑問符がつきます。

訴える力もありません。

一体誰がこんな総裁を選んだのでしょう。

自民党よ、しっかりしてください。

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2007年8月 1日 (水)

国のあり方を考えました

「改革か、逆行か」と叫んでいた安倍総理の自民党は惨敗しました。

自由主義・規制緩和・市場競争重視の路線に疑問が投げかけられました。

本当に必要なのは誰のためのどんな改革でしょうか。

競争を重視して、大企業は利益を上げて、株価は上がっていますが、私達は幸せになっっているのでしょうか?

日経平均株価の上昇をありがたく受け取って、さらなる上昇のためにリストラを受け入れたり、過労死するまで働かなくてはならないのでしょうか。

企業が営利を追求するのは当然ですが、国(政府)がそれを後押しするようでは、格差が拡大する一方で、社会は衰退し国は滅びるでしょう。

せっぱつまっている人々が大勢います。

「国民の生活が第一」と訴えた民主党が議席を増やしたのは、そういう人々の心に届いたからだと言えます。

これ以上追い込まれてはたまらない、安心して暮らせる社会制度が何よりも求められます。

国がすべきことは、競争を激化させることではなく、所得を課税によって再分配することです。

悪平等は社会を壊す、機会の平等が大切という議論もありますが、現在本当に機会の平等が保証されているのでしょうか。

年齢差・性差による就職差別、経済力のある者に有利な状況が至る所にあります。

競争にはルールが必要です。大人と子供を同じ条件で競争させるようなことをしてはいけません。

そのルール作りも国の役割ですから、現状に配慮し、変化に対応できるものにしてもらいたいものです。

勝ち組負け組を生み出さない社会が必要です。

将来的に憲法改正が行われることになるでしょう。

日本国憲法の基本精神は、国民主権(民主主義)・基本的人権の尊重・平和主義の三つです。

各条文を変更させてもこの精神は大切にすべきです。

この精神が真に実現している国こそ「美しい国」でしょう。

国家を中心にして、愛国心を強要するようであってはなりません。

誇りに思え、愛するにたる国であれば国民は自然にそうするでしょう。

まず愛されるにたる国になるべく、国民に支持される政策を行うことです。

国民は常に深く考え、話し合って、国のあるべき姿を体現できる人を代表者にしていかなくてはなりません。

政治課題や社会問題をもっと身近なこととして話し合いましょう。

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2007年7月25日 (水)

政治について改めて考えてみましょう

参院選の最中でもあるので、より深く考える機会になればと思います。

政治とは、個人や団体の利害を調整する過程と考えられますが、本来は価値観まで含めて討議し、調整する過程であるべきでしょう。

政治家・候補者は、もっと自分の哲学を語るべきなのです。

根源的な価値観まで含めて討議しないと本当の問題も見えてこないし、よりよい決定も下せないことになります。

政治家に必要なのは、よく聞いて理解する力、状況を判断する力、自分の意見を的確に説明する力です。一言で言えば、コミュニケーション能力、人間力と言えるでしょう。

折り合いをつけて、決定することも必要ですから、人の意見を聞いて受け入れる度量も大切です。自分の考えに固執するだけでは失格ということになります。

自分と政治家がダイレクトにつながっているのなら対話を通じて、政策を深めることができますが、実際には選挙の際に、公約やマニュフェストを読んで、賛同できる候補者に一票入れることが政治参加の全てになりがちです。

政治においては(全てにおいてもそうですが)結果より過程が大切です。

政治参加が、選挙の際に一票を投じることだけになってしまってはよくありません。

社会の各所・各分野で政治について(自分たちのこととして)話し合い、考えを深めたりよりよいものを探したりするべきでしょう。

それだけでも社会を成熟させる契機になりますが、実際の政治に反映されるならなお望ましいことです。

庶民と政治が切り離されているのはよいことではありません。

各政党は候補者応援のための演説会だけではなく、日ごろから地道な学習会や意見交換会を開催すればいいと思います。

政党が自分たちの政治信条・政治課題に固執するあまり、広く意見を受け入れることができなくなっているのは残念な状況です。

政党が、庶民感情からも各政治家からも離れてしまってはその存在意義をなくすことになります。

さらに、一つの政党(保守でも革新でも)が長年政権の座にあることはよくありません。

2大政党制も望ましいものではありません。

多様な意見が二つしかない政党によって本当に反映されるのでしょうか。

限界があるでしょう。

二者の話し合いは、二項対立になりがちで、調和をつくりだすのではなく、つぶしあいになりがちです。

二元論ではなく、多元論による調和・統合への試みがあるべき姿だと考えます。

少数意見が認められ、それに配慮される社会こそが、あるべき姿でしょう。

「投票しても何も変わらない」ではなく、十分に社会状況を考え、あるべき社会のあり方を考える機会にしていくことが大切だと思います。

それはある意味自分探しであり、社会を変えていくことにつながるでしょう。

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2007年7月18日 (水)

礎の定まる方向へ(まとめ)

これまで色々な事件や相談を基に考えたことを述べてきました。

読んでくださっている全ての人の心の中に「礎」が定まり、悩みが少しでも軽くなってほしいと願ってのことです。

それがこのタイトルの由来です。

よく建築物に、「定礎」とありますが、人間にも「礎」があってしかるべきです。

それは、その人の哲学・行動基準・「何を大切にするか」という価値観でしょう。

多くの人が一つの価値観を共有していた時代にはそういう悩みも無かったでしょうが、価値観の混在・混乱している現在では、根源的な問題から考えなくてはならない状況です。

自分と社会の現状を見つめ、熟考して自分の哲学を築いていかねばなりません。

それは独善ではなく、広く共感されるものであるべきです。

自然から離れすぎてしまった現代人には、自然に帰ること、自然に即することが何よりも大切です。

もちろん自然には様々なレベルがあります。

夜中に会いに行ったり、電話をかけたりするのは、一般には不自然でも、恋する男女としては自然なことでしょう。

電話を待っている人がいるなら遅いとか気にしないでかけてあげてください。その人はあなたのことを大切に思っていて、きっと一日中待っていることでしょう。

「三方よし」(自分にも相手にも世間にもよい状態)を探求することも大切です。

どうすれば、悩まなくてすむようになるのでしょうか?

残念ながら、悩まなくてすむようになるほど人間は完全な存在ではありません。

不完全な存在ですから、失敗は避けられません。

「間違ったっていいじゃないか。人間だもの」(相田みつを)、その一方で、「過ちて改めざる、これを過ちという」(孔子)とも言います。

人生は試行錯誤の連続であり、一貫したものには中々なりませんが、それでいいのではないでしょうか。

以前より、よい判断ができているならよしとしましょう。

悩んだときは、問題を本質を掴み、分析して、自分の哲学に応じて行動を決めて、実行していってください。

様々な問題も自分が成長するための糧と捉えれば、悪いものばかりではありません。

今後はより本質を論議できる社会になってほしいし、そうする必要があると思っています。

そういう考察を続けていこうと思っています。

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2007年7月 2日 (月)

礎の定まる方向へ46

就職がうまくいかず悩んでいる人も大勢います。

何回面接を受けても落とされていると落ち込んでしまうのも無理はありません。

しかし面接や入社試験で本当に自分の価値を評価されているのでしょうか。

人を喜ばせ、人に貢献する道を歩むなら道は開けるはずなのです。

ある会社に選ばれなかったということは、その会社のその時の考え・方向性・状況に合わなかったというだけのことにすぎません。

また採用の際に、どんな基準を定めたとしても、人間のやることですから過ちもあります。

採用の失敗を経験していない会社があるでしょうか。

採用されなかったのは、向こうに見る目がなかったと思うくらいでちょうどです。

もし自分に至らぬ点があると判明したなら、その点のみを改善すればいいのです。

自分を全て否定されることはないし、否定できる人などいないのです。(自分自身ですら否定してはならないのです)

たとえ受けた会社全てに落ちたとしても、生きる価値や意味はあります。

人生を否定してはいけません。

短期の仕事をするとか、誰かの手伝いや依頼された仕事をすることで、少しの報酬でもやれることをやることです。

人に貢献することを続けていれば道はきっと開けていきます。

もし誰かを騙したり、打ち負かすことによってしか生きられない社会になっているとしたら、その社会そのものが問題です。

社会のあり方を変えなくてはなりません。

少ない報酬で生きていくためには、工夫が必要です。

作物を栽培するなどしてみてください。

人生で大切なのは、就職することでもお金を稼ぐことでもありません。

生きて感動することであり、命を輝かせることなのです。

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2007年6月26日 (火)

礎の定まる方向へ45

自分にこだわる人、自己愛の強い人もいます。

自分を大切にすることはすばらしいことです。

成長する原動力になっていくなら言うことはありません。

しかし、自分にこだわったり、自分を愛するあまり、他のことに関心がなくなったり、見えなくなったりして、成長できなくなるのは問題です。

自分にこだわる人は容易に自己中心主義者、エゴイストになる可能性があります。

またそういう人と縁ができ、魅了されて、離れられなくなってしまいかねません。

自己愛の強い人にとって、エゴイストはある意味理想のタイプですから。

自分にとってプラスにならないことを悟ってもらいたいものです。

それには深い内省が必要ですが、これも自分のことや相手のことしか考えない視点からはなしえないものです。

こういう人が現状を変えていくためには、自分へのこだわりを捨てて、自分と相手以外の世界、付き合いを大切にして、内面的に成長するしかありません。

世の中は、自分が中心ではないし、相手が中心でもないし、神が中心でも絶対でもありません。

関わりの中で流れていくものです。

様々なことに関心を持ってください。

そうすれば様々な人と語り合うことができるようになります。

様々な人と関わり、様々な意見を受け入れていく中で、本当の自分、自分の本性が見出されます。

「玉磨かざれば光なし」と言われるように、本来の美しさも磨かれて輝くのです。

人間も関係によって磨かれて輝くのです。

閉じられた精神、関係は打破して、新しい関係を築きましょう。

面識のある人とさらに深くつきあってみることなどをしたらよいでしょう。

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2007年6月20日 (水)

礎の定まる方向へ44

生きる意味を見出せず気力を無くしている人もいます。

人生に手応えや実感がある人は幸せです。

どうすれば気力を取り戻すことができるでしょうか。

将来に大きな夢や生き甲斐を持つことは素晴らしいことです。

でも明日の活力になるのなら、小さくてもちっとも構わないでしょう。

毎日の散歩や連続ドラマをみることや毎週会う人とのちょっとした会話などは、生き甲斐と呼ぶには小さすぎるようでも、明日への活力や希望になっているなら、大事にしてください。

生きていれば、様々な経験をして、今までにない価値観や意味を見出すかもしれません。

もちろん見出せなくても生きることは大切です。

すべての価値や意味の上に置くべきです。

その上で納得できる価値や意味を探求したらよいでしょう。

そのうち自分のすべきことが見つかり、気力も甦ることでしょう。

見出した価値や意味は人に認めてもらうことはありませんが、共有できる人を見つけられれば喜びは増大します。

生き甲斐が増えることは喜ばしいものです。

私の生き甲斐は、相談を受けたケースが少しでも解決したと実感すること、教えている子供の成長を感じること、縁ある人を大切にすることなどです。

想いが伝わらず、或いは受け入れてもらえずもどかしい時もありますが、相手の心が平穏であるならそれもよいだろうと思います。

自分の立場で考えるのではなく、相手の立場を尊重し、その考え・決定を受け入れ、全てをいとおしみ、慈しめるようでありたいと願っています。

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