長宗我部関係文書

2012年3月22日 (木)

長宗我部紀行28

(タイトル)忠臣と謀臣の佐川城

JR佐川駅より須崎方面に
国道494号線を南に行くと
間もなく左手に
佐川城跡を示す標示
この西の山上に佐川城があった
細い水の流れに沿って登る
土が崩れてきてかなり危ない
頂上の詰の跡には土塁
二ノ段には大きな礎石
その外には堀切
その堀切の中に石で作られた橋の跡
佐川一帯を治めていたのは中村越前
久武親信がその娘婿となり
佐川城に入城した
親信は伊予の総軍代となったので
ここが伊予攻略の拠点となった
ここから幾度も出陣しただろう
親信は戦死し弟親直が跡を継いだが
親直はここにはあまりおらず
竹ノ内虎之助が留守を守った
親直は謀臣と言われるが
忠臣だったという説もある
盛親への思いが深かったのは確かだ
忠臣と謀臣は紙一重なのかもしれない

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名言・名台詞集

「戦国土佐」の名言・名セリフ集-「土佐物語」より-
「土佐物語」は戦国の土佐・四国の戦さ等を描いた軍記物語です。
その中から、名言などを選んでみました。
長宗我部元秀(兼序、元親の祖父)
「我が鬱憤を散ぜしめよ」
(岡豊城落城時、落ち延びさせる千雄丸に対し)
一条房家
「今この千雄丸、天晴れ獅子の勢あり。行く末頼もし」
(高楼から飛んだ後の国親千雄丸を評して)
江村親家
「一際花やかなる働きして、敵味方の眠りを醒まさせ候べし。すは参り候」
(長浜合戦にて)
長宗我部国親(遺言)
「相構えて和睦すべからず。我軍神となって守るべし」
本山貞茂(後の本山親茂)
「天の咎めも、神の罰も有るべからず、受けて御覧候へ」
(朝倉合戦の際、元親に弓引いて)
福留親政(福留隼人の父)
「これ程の大崩れに荒切りして通るべし。小切りは若者にせさせよ」
(安芸勢に岡豊城が襲撃され、反撃に移る際に、同僚の熊谷源助に対して)
吉田俊政(吉田重俊の嫡男重康の三男)
「運は天に有り、鎧は質屋に有り」
(岡豊襲撃を聞き、助けに駆けつけようとした時、鎧をつけよと言われて、ふざけて)
安芸国虎
「家の勝劣といい、官位の尊卑といい、禄の高下といい、彼が幕下に降るべきいわれなし」
(黒岩越前から元親への降伏を勧められて)
黒岩越前(安芸国虎家臣)
「この上は、主従一所に屍を曝すより外はなし」
(降伏に同意しない安芸国虎の元より退出した後の独言)
土居宗三(一条家家臣)
「さてさて御先祖に劣らせ給ふものかな。一条家の末に成りたる先表なり」
(諫言を聞き入れない一条兼定に対する独言)
一条兼定
「皺首打てとは余りに過ぎたる言葉かな。さらば願いを叶えん」
(土居宗三を手討ちにする時)
中島可之助
「蓬莱宮のかんてんに候」
(元親は鳥無き島の蝙蝠だろうという信長に対して)
御庄越前守(伊予南部の豪族)
「土佐勢何程の事の有るべき。ただ幾度も追い払え」
(土佐勢が攻め込んでくると聞かされた時に)
久武親信
「彼は行く末、御家の障りには成り候とも、御用に立つ者にては候はず」
(出陣に際して、元親に、弟親直の事を評して)
江村親俊(江村親家の嫡男)
「戦さは勢の多少によらず。遅れを取り名を汚すな」
(豊臣秀長軍を迎え撃つ際、家臣に)
長宗我部信親
「死生命有り。明日限りの定業なるべし」
(戸次川合戦の前夜、死を決意して、家臣に)
吉良親実(元親の甥、世継ぎ評定で元親に意見して、切腹させられた)
「当家の衰弊近きに有るべく候」
(切腹する際に)
福留隼人
「民を苦しめて、独り楽しみ給ふ事、無道と言ふに余りあり」
(酒樽を砕いた時に、運んでいた人足に対し、元親を評して)
長宗我部盛親
「盛親は内府に属するを以って孝行せん」
(関が原に際し、父と縁の深い徳川につくか、烏帽子親のいる大坂方につくか決めた時)
「大坂の落城は、盛親に始まる」
(大坂の陣の後、捕らえられて、家康より、大坂方の敗因を尋ねられた時の返答)
久武親直
「ただ御上りあるが肝要に候」
(関が原から土佐へ敗走してきた盛親に上京を勧めて)
津野親忠
「長宗我部の家も是までなり」
(襲撃を受け、切腹させられる時に)

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長宗我部紀行27

(タイトル)法厳城は高く聳えていた
いの町中心部より仁淀川沿いの国道194号線を北へ
出来地を左折し上八川口橋を西へ渡ると
越知町黒瀬に法厳城への登り道がある
急な坂道が幾重にも折れ曲がり
途中に大きな石が落ちていて
崩れるのではと心配になる
登りつめると平場に岡本神社
石垣は中世のものであろうか
南に高い土塁
ここは片岡氏の本拠であった
片岡氏は中世以来
数々の戦乱をくぐりぬけ
高岡郡北部最大の豪族となった
この城を築いたのは片岡光綱
その父茂光は長宗我部国親の妹を妻としたという
光綱は元親の従兄弟ということになる
光綱は吾川・高岡の諸将に
元親への降伏を勧めたという
その後光綱は
伊予の金子元宅を救うため
吉川・小早川の大軍と戦い討死した
その子光政は戸次川合戦で討死した
ここから仁淀川がよく見える
片岡氏もこの法厳城も忘れてはいけない

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2012年3月14日 (水)

元親名言録-「土佐物語」より-

元親名言録-「土佐物語」より-
戦国時代の土佐を描いた軍記「土佐物語」より、長宗我部元親の人間性を示すような名言・セリフを抜き出してみました。
「それ武士は命より名こそ惜しけれ。一足も引くべからず」
(長浜合戦にて)
「この城には人無きぞ。急ぎ攻め入れ」
(潮江城攻略時)
「全く彼の息女が容色の沙汰を聞き及びたるに非ず」
(石谷氏の娘」を妻に迎えるにあたり、家臣たちに対して)
「敵寄せ来たるは覚悟の前、驚くは未練の至りなり」
(安芸勢の岡豊襲撃に際して)
「誠に希代の珍事なり」
(一条内政の後見を依頼されて)
「溺の器にして仇を返さんずるぞ」
(弟島弥九郎を殺した海部氏に対して)
「崎の浜の者ならば、犬までも逃さず、討ち捨てよ」
(崎の浜合戦にて)
「戦さは十分に勝ち過ぎざるを軍法の秘伝とす」
(崎の浜合戦ほか様々な合戦の時)
「せめて南海・西海の主と仰がればや」
(土佐を統一して)
「いやいや、元親見る所あり、老巧にも劣るまじきぞ」
(信長への使者に選び出した中島可之助を評して)
「急ぎ大西に帰り、覚養と共に長治に忠節有るべし」
(大西覚養の裏切りに際し、人質の大西上野介に対し)
「逃ぐるをば追ふべからず、城を乗れ」
(阿波重清城攻略に際して)
「四国の蓋に成して、貴僧の御目にかけ候べし」
(雲辺寺の住職に対して)
「兄弟とても必ず一等には非ず、赦免すべし」
(波川玄蕃謀反の時、その兄弟に対し)
「唯今日を初陣と心得、前功を思はざるを肝要とす」
(急戦を主張し行動する信親を諌める使者として派遣する近沢越後に)
「万事汝が心に任せて、必ず元親に問談する事なかれ」
(久武親信を伊予の総軍代に任命して)
「人はともあれかくもあれ、我は怨を恩にて報ぜん」
(三好山城守の裏切りに際し、その人質の処遇の評議において)
「西国にての勇士と名を得たる元親が、一戦もせずやみやみと無事せん事、屍の上までの恥辱なり」
(降伏を勧める谷忠兵衛に対し)
「大将の誉れは士卒の功に依れり。元親いかばかり思ふといふとも、方々がそれ程腰を抜かす上は、力及ばぬ事なり」
(降伏を受け入れる時に)
「元親の運命是までなり、討死せん」
(戸次川合戦で死を決意して)
「言ひ甲斐なき奴原が手にかからんより、爽やかに腹を切らん」
(戸次川より退却する途中で、土民に阻まれた時)
「たとへ賊船にもせよ、あの船一艘に驚く事やある」
(サンフェリペ号の漂着を聞いて)
「子ながらも恥ずかしき」
(信親を評して)
「いかにも謀りて打ち取るべし、構えてそこつすべからず」
(何者かを襲撃する時、事ある毎に)
「四方はみな 汲手になびく 霞かな」
(連歌の発句)

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2012年1月28日 (土)

長宗我部紀行26

(タイトル)東の広井 西の吉田
南国市廿枝 西島園芸団地
ここには広井土居城があった
長宗我部六代目満幸の次男俊幸が
南北朝時代に城を築き広井氏となった
その後ずっと長宗我部に仕えた
戸次川で死んだ者もいる
北東の祠は城八幡なのだろう
南国市岡豊町吉田
ここには吉田土居城があった
吉田氏は以前からこの江村郷吉田に住んでいたが
吉田周孝が長宗我部国親の縁者となることで
一族は重用され
数多くの功績を残した
この地は高い土塁に囲まれている
土塁は高さ約3m幅約5m
土塁の上は畑や墓地になっているが
比較的よく残っており
戦国の息吹を感じさせる
一角に石碑と祠がある
何やらゆかしい
広井氏と吉田氏は
「東の広井 西の吉田」と並び称され
岡豊城の東部の守りを担当した
長宗我部になくてはならない一族だった

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2012年1月 8日 (日)

長宗我部紀行25

(タイトル)安芸方が善戦した姫倉城
香南市香我美町岸本
月見山への道の手前に
姫倉古戦場跡の石碑
吉良親貞・香宗我部親泰が
姫倉豊前守・右京親子と戦った
姫倉勢は善戦し
岡豊勢を大いに悩ましたが
多勢に無勢で敗れた
姫倉豊前守は安芸へ逃げる途中で
長宗我部に降伏し
八流合戦では先陣を務め
中富川合戦でも活躍した
子の右京は和食城を預かった
月見山に上る道の途中に
姫倉城の案内標示があり
丸太を敷いた道がある
姫倉城址は公園になっていて
ブランコやシーソーがあり
周りには土塁が残っている
海がよく見える
東に二の段がある
この地は熊野新宮の領地であった
古代からの神秘とロマンが漂っている

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2011年12月14日 (水)

長宗我部紀行24

(タイトル)ここから始まる長浜城
高知市長浜
雪蹊寺の背後の山に
かつて長浜城があった
秦神社の西の道を上り
西宮神社より尾根道を登る
金網を越えてさらに上へ
詰の段は土塁に囲まれており
南側はよく残っている
ここに長宗我部軍300人が攻め寄せた
激しい雨の夜だったという
城主大窪美作守は
家の子郎等を集め
酒宴を催していたという
城は火をつけられ
一気に攻め寄せられた
城兵は我先に逃げ
討ち取られたり生け捕られたり
この城攻めから
長宗我部の四国平定は始まった
ここから長宗我部の
未来が見える
無限の空を抱きしめ
僕らは生きていくんだ

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2011年10月27日 (木)

長宗我部紀行23

(タイトル)毘沙門堂にて信親を想う
南国市岡豊町滝本にある毘沙門の滝
土佐統一の後元親もここを訪れ
蜷川道標に歌を詠ませたりしている
その4年後14歳の信親は
ここに毘沙門堂を建立した
滝に向かって池の右脇の道を行くと
右手に見える朱塗りのお堂
毘沙門天は軍神だから
時々岡豊から馬を駆けさせ
ここで武運長久を祈ったか
時には夜通し籠ったりもしただろう
赤い橋からは毘沙門の滝がよく見える
二段に分かれた見事な滝だ
ここで滝に打たれた事もあるかもしれない
信親は元親の期待を一身に背負い
文武両道の師匠から教えを受けて
戦国最高の武将となるべく育てられた
将来を嘱望されていたのに
22歳で死んでしまったのは
余りにも惜しい事だった
それが長宗我部の運命も変えた
信親を慕う人にはぜひここに来てほしい
ここは信親を想うにはよい場所だ
まさに聖地なのだから

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2011年10月12日 (水)

長宗我部紀行22

(タイトル)佐竹氏の本拠地を訪ねる
中土佐町久礼の城山
久礼中学校の前の道を上り
丸太を敷いた階段を上り遊歩道を行く
二ノ段からは堀切がよく見える
虎口を通って詰ノ段へ
ここに櫓と蔵が3棟あったとか
細長い地形で土塁に囲まれている
「久礼城跡 佐竹氏居城」の石柱
天水の井戸跡
代々の城主を祀った佐竹神社
久礼小学校には中ノ城
金比羅山には居住した下ノ城があったとか
この大きさは佐竹氏の底力を感じさせる
佐竹氏は津野の配下であったが
実に巧みに一条につき
そして長宗我部に寝返った
その後もしぶとく生き延びて
子孫は今も多く多方面で活躍している
中土佐町上の加江土居に
善賢寺という寺がある
そこに上の加江城があった
元親の三女の嫁いだ城だ
ここは少し僻遠に過ぎるかもしれない
須崎市安和も佐竹領だった
佐竹氏は侮れない

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2011年9月22日 (木)

長宗我部元親には政略結婚の概念が無かった

9月11日、佐竹一族の方々と一緒に高知県中土佐町にある久礼城跡に登りました。
そこで、考えたことを述べます。
それは、元親には政略結婚の概念が無かったということです。
以前から、元親の三女(阿古姫)と四女の結婚が不思議でした。
名も無い所に嫁いでいるからです。
三女は、まだ佐竹氏というある程度名の知れた一族に嫁いでいるのですが、久礼城の当主義直やその息子親辰ではなく、義直の弟で、上の加江城主義秀の息子親直に嫁いでいるのです。
どうも家格が釣り合いません。
中土佐町教育委員会に長年勤務した林勇作さんに質問をぶつけてみました。
「義直が一条から長宗我部に寝返った時、義直の弟義秀が、岡豊城に、人質に行ったが、この義直は、弓の名手であったので、見込んで、その息子に三女を嫁がせたのでしょう」という事でした。
別に反論はしませんでしたが、これはどうも納得し難い話です。
人質の息子に、長宗我部の姫を嫁がせるでしょうか。
三女が生まれたのは、1573、74年と思われます。1570年代後半から80年代前半にかけては、四国平定戦争が行われているところですから、四国内の名のある一族を味方につけるために、政略結婚を進めてもよさそうなものです。
四女に至っては、吉松十右衛門に嫁いでいます。
そうとう詳しい人でも、こんな名前知らないのではないでしょうか。
本山氏に属していて長宗我部に寝返った秦泉寺氏の一族で、万々城主でした。
四国最大の武将である長宗我部元親の姫君が、なぜ上の加江城主や万々城主に嫁がなくてはならないでしょうか。
不思議でなりません。
長宗我部ファンクラブのある会員の説では、恋愛だという事ですが、確かにそうとでも考えないと、説明がつきません。
勿論、相思相愛の恋愛を育む時間や機会は無かったでしょうから、三女は、岡豊城に来た親直を垣間見て、一目惚れして、押しかけ女房のように嫁いだのではないかと考えられるのです。
それを許す元親も本当はどうかしています。(そこも魅力だということもできますが)
明らかに戦国の常識からかけ離れている。
当然、政略結婚を考え、行うべきだったのではないでしょうか。
元親はフェミニストとも言えるでしょうが、この点では、政略に欠けており、時代の常識から逸脱しています。
四国最大の武将になっても、岡豊三千貫の領主の意識が抜けなかったのでしょうか。
元親の意識・認識をさらに追ってみたいところです。
序に長女と次女の婚姻も見ておきますと
長女は、一条兼定の嫡男内政に嫁いでいます。
これは主筋なので、一応もっともな婚姻とも言えますが、既に兼定はいないのですから、何も長女を嫁がせる必要は無かったのではないかと考えられます。
それとも、元親は本当に内政が成長したら、幡多を返す心算だったのでしょうか。
内政をうまく取り込み、家臣のようにしていくには、長女を与える必要があったのか、この辺はわかりにくいところです。
次女は、弟吉良親貞の長男吉良親実に嫁がせています。
これは、従兄弟同士の婚姻であり、同族婚です。
弟亡き後、その息子親実とのつながりを強めようとする意図はわかりますが、娘をやらなくても、他の方法もあったはずです。
どうも、十分に考えた上での婚姻とは考えがたい。
十分すぎるほど考える元親が、この一連のうかつな婚姻はどうしたことでしょうか。
さらに深く研究してみたいところですが、とにかく元親に、政略結婚の概念が無かったことは確かなようです。

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